>>当サイトの管理人は、こんなモノを買ってます(管理人のamazon購入履歴)
2014年2月 6日
今日は、古代史を調べている過程で、見つかった資料を見ながら考察します。
下記は、日本で3番目に古い浦島太郎の絵巻物です。
室町末期に描かれたものです。
▼浦島太郎 絵巻物
【日本民藝館蔵】
実は、この巻物には、"あの和歌"が含まれてます。
それが下記。
そう。。。見ての通り。。。
「君が代は、千代に八千代に、、、」の和歌です。
君が代の和歌は、平安時代の『古今和歌集』の巻第七、343番の、
「わが君は千代に八千代に細石の巌と成りて苔のむすまで」
という和歌が初出で、それが日本国歌の原型になっているのですが、、、
この浦島太郎の絵巻物では、この室町末期の時点で、既に、
「"君が代は"千代に八千代にさざれ石の巌と成りて苔のむすまで」
・・・という、近代的な国家と同じ和歌として、描かれているのが分かります。
そして、この絵巻物で注目に値するのが、この浦島太郎の物語最後の場面において、、、
「君が代」と「浦島太郎」とが、一緒に結び付けられて考えられていることです。
これまで、「浦島太郎」の話に「君が代」が関わっている、、、
というのは、管理人は、一切聞いたことがありません。
ですので、これはちょっとした発見です^^;
しかし、なぜ、浦島太郎の絵巻に「君が代」が書かれているのでしょうか?
突然、物語の最後に「君が代の和歌」が書かれているのも、少し唐突に見えます。
ですが、これは中世の浦島太郎の"ストーリーの変遷"とも絡んでいる問題のようです。
と言いますのも、、、
浦島の初期の原作である「日本書紀」「風土記」「万葉集」の3種は、
「こちらの記事」で原文を紹介したとおり、
最後は、浦島太郎が白髪の老人になるだけで終わっているのですが・・・
一方、中世の「御伽草子
」の浦島太郎になると、
『最後、白髪になった浦島太郎が鶴に化け、亀姫と結ばれる』
・・・というように、最後の部分のストーリーが若干変わってきているのです。
<中世の御伽草子のラストシーン>
浦島は鶴になり、蓬莱の山にあひをなす。
龜は甲に三せきのいわゐをそなへ、萬代よろづよを經しとなり。
扠こそめでたきためしにも鶴龜をこそ申し候へ。只人には情あれ、情のある人は行末めでたき由申し傳へたり。
其の後浦島太郎は丹後の國に浦島の明神と顯はれ、衆生濟度し給へり。
龜も同じ所に神とあらはれ、夫婦の明神となり給ふ。
めでたかりけるためしなり。
上記のように、初期の浦島の原文には出てこなかった鶴が、
御伽草子ではいきなり現れて来ます。
この辺が、絵巻物にも影響していると考えられます。
※ただし、初期の原文でも鶴は出てこないとはいえ、暗示の形で鶴は出て来ます。
すなわち、浦島の"白髪"のことを、古代においては"鶴髪"と呼んでいたのです。
中世においては、それがより直接的な表現に変更され、
浦島が鶴になったと表現されているのです。
能の「高砂」においても、
「頭髪は雪が積もるように白く変わり、千年を経た老鶴のようだ」
・・・というフレーズが有ります。
恐らく、この浦島の絵巻物も、そんな中世の御伽草子の影響を強く受けており、
そのために、浦島の最後の場面で「鶴と亀」が描かれています。
▼浦島太郎 絵巻物の鶴亀
そして、肝心の「君が代」が書かれている理由ですが、、、
これは、鶴と亀の象徴との関わりが大きいように思います。
鶴亀は起源前2世紀ごろから、既に、鶴亀で皇帝の長寿を示す記述がある通り、
君主の長寿を祝うめでたい象徴でもあります。
淮南王劉安(紀元前179年-紀元前122年)が編纂させた『淮南子』の、
[16.説林訓]に『鶴壽千歳』、[21.詮言訓]に『亀三千歳』と言う記述が見えます。
恐らく、こうした「鶴亀」による君主への長寿の祈りが、
いつしか、「君が代」による君子の長い太平の治世を祈る祝歌・寿歌(ほきうた)と同化し、
浦島太郎の絵巻物にも、「君が代」が書かれるようになったのでしょう。
そういう意味で、「鶴亀=君が代」と言っても良いのかもしれませんね^^
古今和歌集 仮名序にも、下記のように鶴亀が記述されています。
鶴亀で君主を思う事は、紀貫之の時代までに既に一般化されていたようです。<古今和歌集の仮名序>
また 鶴亀につけて君を思ひ 人をも祝ひ
秋萩 夏草を見て妻をこひ あふさか山にいたりて 手向けを祈り
あるは春夏秋冬にも入らぬ種々の歌をなむ 選ばせたまひける
すべて千歌二十巻 名づけて 古今和歌集 と言ふ
さて、ここまで分かった所で、君が代の国家の元になったと言われる
薩摩琵琶の「蓬莱山」の歌詞を見てみましょう。
<薩摩琵琶 「蓬莱山」>
目出度やな 君が恵みは久方の 光り長閑き春の日に
不老門を立ち出でて 四方の景色を眺むるに
峰の小松に雛鶴棲みて 谷の小川に亀遊ぶ君が代は 千代に八千代にさざれ石の 巌となりて苔のむすまで
命長らへて 雨塊を破らず 風枝を鳴らさじと云へば又 尭舜の御代も斯くやあらん
斯程治まる御代なれば 千草万木花咲き実り 五穀成熟して
上には 金殿楼閣甍を並べ 下には民の竈を厚うし
仁義正しき御代の春 蓬莱山とは是とかや
君が代の 千歳の松も常盤色 変らぬ御代のためしには
天長地久と 国も豊かに治りて 弓は袋に剣は箱に蔵め置く
諌鼓(かんこ)苔深うし 鳥も中々驚くやうぞなかりける▼薩摩琵琶
勇猛豪壮な演奏に使用される薩摩琵琶薩摩琵琶(さつまびわ) 普及品 fs2gm
価格:399,000円(税込、送料別)
上記の通り、やはり、薩摩琵琶「蓬莱山」でも
「君が代」の前に、鶴と亀がセットになって出てきているのが分かります。
したがって、こういった事と、この薩摩琵琶の創始が16世紀であることを考えると、
薩摩琵琶の「蓬莱山」も、元は浦島太郎のストーリーが根底にあった可能性が高い!
・・・と管理人は考えます。
その証拠に、中世の「御伽草子
」の浦島太郎にも、鶴亀の直前に、
唐突に、蓬莱の山というキーワードが出てきています。
<中世の御伽草子のラストシーン>
浦島は鶴になり、蓬莱の山にあひをなす。
龜は甲に三せきのいわゐをそなへ、萬代よろづよを經しとなり。
扠こそめでたきためしにも鶴龜をこそ申し候へ。只人には情あれ、情のある人は行末めでたき由申し傳へたり。
其の後浦島太郎は丹後の國に浦島の明神と顯はれ、衆生濟度し給へり。
龜も同じ所に神とあらはれ、夫婦の明神となり給ふ。
めでたかりけるためしなり。
さらに、浦島太郎の原文のうち、「日本書紀」「風土記」にもやはり、
「蓬莱山」というキーワードは出て来ます。
<日本書記の浦嶋子伝説>
ここに浦嶋子、心がたかぶって、その女性を妻とした。そして、一緒に海に入った。
二人は、蓬莱山に到って、そこで不老不死の仙人をつぶさに目にした。
<丹後国風土記逸文の浦嶋子伝説>
女娘は『それではあなた、
棹をとり直して蓬莱山(とこよのくに)に行こうではありませんか』といった。
嶋子が従って行こうとすると、女娘は注意して目をつぶらせた。
こうやって、つぶさに考えて行きますと・・・
「君が代」と「浦島太郎」の話とは共通項が非常に多いのが分かります。
もっと言ってしまえば、
薩摩琵琶の「蓬莱山」は、浦島太郎に由来する!と言っても良いのではないでしょうか?
しかし、なぜ、薩摩琵琶の「蓬莱山」に、浦島太郎の説話が絡んできているのか?
・・・と言うのは、かなり謎です。
これを、言いかえると、
なぜ、丹後半島の浦島太郎の話が、遠く鹿児島の薩摩琵琶と結び付いているんだ?
・・・という話にもなります。
ですが、ここには、薩摩琵琶に関するルーツが深く絡んできていると思われます。
実は、薩摩琵琶のルーツを調べると、下記のように書いてあります。
薩摩琵琶は16世紀に活躍した薩摩の盲僧、淵脇了公が
ときの領主、島津忠良(日新公)の命を受けて、武士の士気向上のため、
新たに教育的な歌詞の琵琶歌を作曲し、楽器を改良したのが始まりと言われる。淵脇了公(ふちわき りょうこう、生没年不詳)は、中島常楽院31代目住職。
▼盲僧による琵琶
上記の通り、薩摩琵琶のルーツは16世紀の盲僧で、
中島常楽院の住職、淵脇了公まで遡ることが出来ます。
さらに、この中島常楽院を調べてみますと、、、
下記のように書いてあります。
中島常楽院は鹿児島県日置市吹上町にある寺院。宗派は天台宗。
島津忠久が守護に任命された際に
逢坂山(滋賀県大津市)にあった妙音寺常楽院(現在廃寺)の僧侶、
宝山検校を伴って下向し、建てたのが中島常楽院とされる。(建久7年(1196)に島津忠久は 宝山検校を伴って薩摩に下ったと伝えられている)
▼島津忠久(惟宗忠久)
平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。鎌倉幕府御家人。島津氏の祖。
島津が薩摩と関わりを持つのは、この時代に日向国島津荘下司に任命されてから。
中島常楽院は視覚障害者の僧侶しか入れない「盲僧寺」とされ、
歴代の住職は楽器の達人が多かったとされる。戦国時代になり15代当主・島津貴久によって
薩摩国大隅国日向国の盲僧の監督寺とされ、歴代薩摩藩主の帰依も高かった。18代当主・島津家久は元和5年(1619年)常楽院を
鹿児島城下に移転したため吹上町に残った寺は子院となった。その後、鹿児島城下に移った本院は廃仏毀釈や
第二次世界大戦の空襲被害などにより、現在は宮崎県日南市に移転。吹上町に残った子院も廃仏毀釈により現在は
仏堂1棟と歴代住職の墓のみが残る状態となっている。
上記の通り、中島常楽院は元から薩摩にあった訳ではなく、
そのルーツに、滋賀大津の逢坂山の妙音寺常楽院が大元になっています。
(妙音寺常楽院は西暦808年の逢坂山に開基されたのを始まりとする)
さらには、島津の始祖である島津忠久(惟宗忠久)も、元々は薩摩が基盤ではなく、
鎌倉時代初期にかけて、薩摩の守護職に任じられてから、薩摩との関係が始まっています。
こういうところから考えると、、、
元々、薩摩琵琶の「蓬莱山」のルーツも、中島常楽院よりももっと前、、、
妙音寺常楽院の時代から、語り継がれてきた曲である可能性もあるのかもしれません。
(これ以上詳しいことが言えないので、断定はできませんが)
ちなみに、滋賀の大津の逢坂山と言えば、、、有名なのは、「蝉丸」ですよね?
彼も、盲目で、琵琶の達人でした。
▼蝉丸(生没年不詳 平安時代前期の歌人)
『これやこの 行くも帰るも分かれつつ 知るも知らぬも逢坂の関』
(百人一首では "行くも帰るも分かれては" となっている)これがあの、東国へ旅立つ人も帰る人も、知り合いも知らない他人も、
皆ここで別れ、そしてここで出会うと言う有名な逢坂の関なのだなあ。
で、もしかしたら・・・と思って調べてみると、やっぱり。。。
蝉丸は、中島常楽院の4代目の住職なのです。
もしかしたら、何かしら深いところで、
蝉丸も、浦島太郎や君が代と繋がりがあるかもしれません。
謎は尽きませんが、今宵はこの辺で。。。
関蝉丸神社の社伝によれば、弘仁13年(822年)に小野岑守(おののみねもり)が
旅人を守る神とされる猿田彦命・豊玉姫命を逢坂山の山上に祀ったのが始まりです。▼関蝉丸神社・下社(滋賀県大津市逢坂一丁目)
またその一方で、丹後の浦島伝説の中心を為す宇良神社の創建は、
小野岑守の嫡子である小野篁(おののたかむら)が、(825年)に創建しています。
(宇良神社の社伝では、浦島太郎が825年に帰還したことを記念して創建されている)▼浦島神社(宇良神社) (京都府与謝郡伊根町本庄浜141)
両者は、奇妙にも創建年代がほぼ同じで、
かつ、小野氏で繋がっているようにも見えます。小野氏と言えば、、、始祖は、聖徳太子が派遣した遣隋使で有名な小野妹子です。
小野氏は古くは和邇氏につらなる氏族です
しかし、まだ詳しい事は言えないので、ここでは小野氏の存在だけ挙げておきます。
■関連
↓この記事が「良かった!」と思った方はクリックお願いします♪
▼当サイト管理人が厳選してオススメする、3つの備蓄必需品▼
5年保存冬眠米・無洗米の備蓄王 | |||||||
約5年間の長期保存が可能です。無洗米でもあるので、 国民1人・1年当たりの米の消費量は約60kgです。 |
KATADYN(カタダイン) 携帯浄水器 Pocket Micro Filter ポケットマイクロフィルター |
|||||||
主食のお米を確保した後は、水の確保が重要です。 カタダイン・ポケットフィルターはフィルター寿命50000リットルと、他の浄水器と比べ、段違いの性能を誇ります。 人が一日に必要な飲料水は、2.3リットルなので、大家族でも、 カタダインさえあれば、多くの水需要をカバーできます。 ちなみに、アメリカ合衆国連邦緊急事態管理庁が推奨する緊急時の水の備蓄量は3日分で、 基本的に1人につき1日1ガロン(約3.8リットル)と定められています。 つまり、3日分なので1人につき約12リットルです 移動時や携帯用には「Vestergaard(ベスターガード) 」もオススメ。また、水の携行ボトルなら、「Platypus(プラティパス) 」もおすすめ。 KATADYN(カタダイン) 携帯浄水器 Pocket Micro Filter ポケットマイクロフィルター 海外正規品・並行輸入 |
昔塩 1人10kg(700g×14袋)程度 |
|||||||
お米と水の次は、”塩”です。砂糖が無くても生きていけますが、塩は生命維持に関わります! 塩分が摂取できなくなると、人はめまいやふらつきを覚え、脱力感、筋肉異常、けいれん、精神障害など様々な朔影響を及ぼします。 日本の食用塩の需要は一人年間で約10kgです。 なお、昔塩は、香川県坂出市で作られているこういう特殊形状の塩です。 |
※結局は、日本人がいつも神棚に祀る「お米・水・塩」の3つを確保することが、人間が生きる上で重要な訳です^^