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2013年3月 7日
さて、、、前回までで、七夕の起源に関し、エジプトがルーツである事を述べました。
そして、その結果、、、
【牽牛の連れている「牛」の原型は聖牛アピスである】という言う事が分かりました。
▼聖牛アピス
石灰岩でできたこの大彫像は、エジプトで最も崇拝された
神聖な動物の一つに数えられる、牡牛アピス神を表している。プタハ神が地上に現れる時の姿とみなされ、黒と白の毛色は独特の意味を備えていた。 彫像の上部にある牡牛の角に挟まれた円盤は、この神の太陽との関連性を示唆しており、 太陽円盤の中央には鎌首をもたげた聖蛇ウラエウスがついている。
発見時には、この彫刻全体に彩色が施されていた。
この世での神の姿を表す動物として認められた牡牛は、独特な風貌をしていた。
聖牛と認められるには、尾の毛は全て二又に分れ、舌の下にはスカラベ形の膨らみがあり、
毛色は赤茶の毛が一本も混じっていない黒と白のみでなければならなかった。また、額には三角形、肩には猛禽類が羽を広げた形、
そして脇腹には半月形の斑紋を備えていなければならなかった。このような牛が発見されると、アピス神殿に連れて行かれ、
母牛と一緒に優遇された一生を送ることになった。死ぬと人間と同様にミイラにされ、内臓もカノポス壺に保存された。
そして牡牛は大きな石棺に納められ、
聖牛のネクロポリスにある地下玄室に埋葬されたのである。上記説明文・画像は、「宗教と葬祭信仰 」より引用
神々の食物にして下僕なる聖牛
アピスは天より下り降りた光が雌牛を孕ませて生まれるもので、
アピスを出産した牛は、以後、別の子を孕むことは許されないと信じられていた。アピスは厳密には神ではない。
上記説明文・画像は、「アピス Apis」より引用
実は、この聖牛アピスこそが、
記紀で「ホトを衝かれた女性の謎」を解く、一つのキーパーツになっています。
記紀には女陰・陰部(ホト)を衝かれて死ぬ女性が複数居ますが・・・
それ以外にも、女陰・陰部(ホト)を衝かれて懐妊する女性も、複数見られます。
その代表的な神話が、天之日矛・天日槍(アメノヒボコ)の伝説です。
古事記においては、天日槍の伝説は、下記のように物語になっています。
<古事記における天之日矛伝説>
昔、新羅のアグヌマ(阿具奴摩、阿具沼)という沼で
女が昼寝をしていると、その陰部に日の光が虹のようになって当たった。
すると女はたちまち娠んで、赤い玉を産んだ。その様子を見ていた男は乞い願ってその玉を貰い受け、肌身離さず持ち歩いていた。
ある日、男が牛で食べ物を山に運んでいる途中、アメノヒボコと出会った。
ヒボコは、男が牛を殺して食べるつもりだと勘違いして捕えて牢獄に入れようとした。男が釈明をしてもヒボコは許さなかったので、
男はいつも持ち歩いていた赤い玉を差し出して、ようやく許してもらえた。
ヒボコがその玉を持ち帰って床に置くと、玉は美しい娘になった。
ヒボコは娘を正妻とし、娘は毎日美味しい料理を出していた。
しかし、ある日奢り高ぶったヒボコが妻を罵ったので、
親の国に帰ると言って小舟に乗って難波の津の比売碁曾神社に逃げた。ヒボコは反省して、妻を追って日本へ来た。
この妻の名は阿加流比売神(アカルヒメ)である。しかし、難波の海峡を支配する神が遮って妻の元へ行くことができなかったので、
但馬国に上陸し、そこで現地の娘・前津見と結婚したとしている。
上記の通り、天日槍伝説では、牛が犠牲になって、
しかも、女性が光によって懐妊していますが・・・
これらの物語は、エジプトの聖牛アピスの性格と、相当似ています。
どういう点が、似ているのか?
それを下記に示します。
実は、前述で紹介した、聖牛アピスの記述には、、、
一つ、奇妙な事柄が記されています。
アピスは天より下り降りた光が雌牛を孕ませて生まれるもので、
アピスを出産した牛は、以後、別の子を孕むことは許されないと信じられていた。
これは、俗に言う、「日光感精神話(又は、日光感精説話)」と呼ばれるものです。
日光感精神話とは、「太陽の光が処女を懐妊させる」・・・という類の神話です。
そして、記紀において、日光感精神話は
この「天日槍伝説」が代表的なストーリーの一つです。
(それ以外に、玉依姫の伝説も同系統です)
この天日槍伝説と聖牛アピスの神話を、それぞれの伝説で対比させると、
いかに、似ているか?というのが良く分かります。
天日槍伝説 | 聖牛アピスの神話 |
天日槍の名前で、太陽神を象徴 | 太陽円盤を持ち太陽神を象徴 |
日の光で女性を孕ませる | 天より下り降りた光が雌牛を孕ませる |
牛は殺して食べられそうになる (ツヌガアラシト伝説では食べられている) |
聖牛アピスは河に沈めて殺される |
アカルヒメが逃げだす | 雌牛を孕ませて、アピスを出産した牛は、 その後、別の子を孕むことは許されない。 |
赤い玉 (ツヌガアラシト伝説では白い玉) |
エジプトの王権、赤ナイルと白ナイルの象徴か? |
上記を見れば、前回から、なぜ、わざわざ、管理人が記紀の神話を解くために、
エジプトの話を持ち出したのかわかるのではないでしょうか^^;
まぁ、ぶっちゃけ言えば・・・
天日槍のストーリーの原型はエジプトの聖牛アピスにあると言っても良いのです。
なお、この「太陽の光による処女懐妊」ですが、大別して見ると、
キリスト教の聖母マリアも、処女懐妊で同じモチーフです。
さらに言えば、同時に賀茂神社の賀茂建角身命の娘の玉依姫も、
これと同様のモチーフなのです。
したがって、天之日矛伝説における、妻の阿加流比売神(アカルヒメ)は、、、
阿加流比売神(アカルヒメ)=聖母マリア=玉依姫
上記のような関係性がある可能性も、指摘しておきます。
余談
以前、 下鴨神社の禰宜で、神道研究家の嵯峨井健氏の講演会を拝聴した際、
氏も、下鴨神社の祭神である玉依姫と聖母マリアの懐妊状況等が、
それぞれ似ている事を指摘されていました。管理人個人的に、日本の神道を牛耳る加茂の関係者が、講演会の際に、
「ここにキリスト教関係者の方が居られたら・・・」とわざわざ前置きして、
上記の一致点を指摘された事は、実に印象深かったです^^;
以上、天日槍伝説の物語の概要やエジプト神話の類似点について記しましたが、、、
この元のストーリーから、エジプト神話部分を差し引くと・・・日本の本来の歴史が現れます。
ただし、日本の本来の歴史を探る上では、古事記以外にも、
日本書紀をセットにして、見てあげる必要があります。
そう言う訳で、古事記の「アメノヒボコ伝説」とともに、
日本書紀の「ツヌガアラシトの伝説」も一緒に考えて見ましょう。
<日本書紀 垂仁天皇紀 のツヌガアラシト伝説の概要>
都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)=于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)任那についてこのような話が伝わっている。
先帝の御間城入彦五十瓊殖天皇の御世に額に角が生えた者が、
船に乗って越国の筍飯(けひ)の浦に流れ着いた。そこでその地を角鹿(つぬが)という。
▼敦賀駅前のツヌガアラシトの銅像
都怒我阿羅斯等が自分の国にいたとき
黄牛(あめうし)に田器を負わせて耕作に向かう途中、牛が急にいなくなった。
捜したところ、郡公(むらのつかさ)らが殺して食べた後であった。牛の代償として、群内で祭られている神を要求し、白石を得た。
その神石を持ち帰って寝中に置いた所、美麗な童女に変化した。
アラシトは喜んで彼女と交接しようとしたが、外出している間にいなくなった。彼女は、東方に行ってしまったということで、アラシトはその後を追って渡来した。
探し求めた娘は難波に行って比売語曽社(ひめごそのやしろ)の神となった。
また豊国の国前郡に行って比売語曽社になったとも言う。
だからこの2カ所で祀られている。
まぁ、見て頂いて分かる通り、、、
アメノヒボコ= ツヌガアラシト、、、であるのは間違いありません。
この「天日槍伝説(古事記)+都怒我阿羅斯等伝説(日本書紀)」のストーリーから
エジプトの神話部分をさっぴくと、真の日本の歴史も見えてきます。
この天日槍伝説で確実に言える事としては、
崇神天皇の時代に、渡来人が敦賀から上陸している事を示しています。
同時に、エジプト由来の処女懐妊の話を持ち込んで居ると言う事は、、、
出エジプトを果たした、イスラエルに関わりのある人々が、
この時代に敦賀から、日本に入っているのではないかと推測出来る訳です。
なお、この裏付けとして、敦賀半島の先端には、「白木」という場所があります。
この地名は、天日槍が元々居た、「新羅」の地から名付けたと言われています。
それ以外にも、若狭地方(滋賀の高島含む)には、
信露貴彦神社・白城神社・白鬚神社など新羅由来の神社が多数あります。
したがって、渡来人、、、と言うか
新羅人が、この若狭の地から、大量に日本に流入して来たと考えられるわけです。
そして、この勢力の人々が、日本の皇室にも大きく関わってくるわけで、、、
天日槍が、神宮皇后の母方の先祖に入っているのは、その現れです。
※神功皇后の母はアメノヒボコの末裔の葛城高ヌカ媛(かずらきのたかぬかひめ)
そう言う意味で、神宮皇后の出身氏族である、
滋賀県米原市(旧坂田郡)の豪族「息長氏」にスポットを当てる必要があるのです。
実は、敦賀から、もう少し内陸部に入った滋賀県の米原市に、
顔戸(ごうど:近江国輿地史略では古来は、神戸と呼ばれていた)という地があります。
ここに、アメノヒボコ(=ツヌガアラシト)が暫く住んだという吾名邑伝承の碑があります。
▼滋賀県米原市顔戸の吾名邑伝承の碑など
上記に見えるとおり、天日槍は、昔、しばらく近江北部(旧坂田郡)に住んでいた訳で、
この滋賀北部の息長氏の拠点近くが、古代の渡来人の一大集積地だった考えられます。
それで、この吾名村伝承のある顔戸ですが・・・
先ほど述べた通り、天皇家とも関わりの深い、
神宮皇后(仲哀天皇妃)のルーツとも言える、息長氏の発祥地でもあります。
▼息長氏の発祥地の碑(滋賀県米原市顔戸)
▼神宮皇后を抱く息長宿禰王
それで、神宮皇后の父は、この息長氏(息長宿禰王)ですが、
この神宮皇后の母方の祖は、天日槍です。
だからこそ、記紀において、わざわざ、天日槍伝説を挿入されているのには、
神宮皇后の縁のある、息長氏の影響が大いにあるのではないかと考えられる訳です。
▼神宮皇后の家系図
また、この近江坂田の地は、地形的にもかなり特殊な場所です。
この3~5世紀は、今よりも海が内陸部まで押し寄せてきており、
今よりも約4mほど今よりも水位が高かったと推測されています。
古代においては、岐阜の大垣辺りまで海が迫ってきており、
東日本へは、近江の坂田経由でないと行くことが出来ません。
さらに、北陸道・河内に向かうのにも非常に便利な位置で、
近江坂田の地は、東海・北陸・河内を結ぶ重要ルートだったことが分かります。
同時に、琵琶湖の水運が利用できるとともに、
日本海側の敦賀は天然の良港で、日本にとって大陸文化を受け入れる表玄関で、
九州・中国地方に行くのにも便が良かった地域なのです。
だからこそ、この近江坂田の地を支配していた息長氏は大きな権力を持ち、
古代の天皇家にも外戚として、大きな影響を及ぼすことになったのです。
こういう背景があるからこそ、坂田郡のある北近江の地域の古代伝承には、
記紀を解く上でも、大きなヒントがあると考えられる訳です^^
さて、この北近江の地で、古代において勢力を誇ったのが息長氏です。
その息長氏に最も縁の深い神社の一つが、日撫(ひなで)神社です。
▼日撫神社(滋賀県米原市顔戸の日撫山に鎮座)
<日撫神社 御由緒>
延喜式神名帳記載の坂田郡五座名神小の内の一にして、創始の年代は詳かではないが 、
「神祇志料」では「新撰姓氏録を案ずるに、山田造火撫直あり、
共に後漢需帝四世 の孫阿智使臣の族也と云へり、之によると、
二氏の族、或は此處に居るもの其の祖先 を祀れるか」と、
また「神社覈録」でも「祭神火撫直祖神歟」と記している。社伝お よび明治の神社誌によると、当地神功皇后の祖先代々住まれし地なるを以って、
皇后 此の地を慕い給う事深く、三韓より凱陣し給うや、此の地に を建て、
御父息長宿禰 王及び國土経営と医薬に功ありし小毘古命を祀り給いしを創始とす、
とその創立の由 来を説いている。中古は、社領六百石を有し、朝妻荘内十一ケ村大社であり
数箇の大伽藍と十九の社坊 を数え、多くの社僧がいたことを記録に残している。歴朝の祟敬深く、村上天皇は宸 翰の額を奉納され、
特に後鳥羽上皇はしばしば参詣され、應神天皇を祀り給う、
その 時村人による角力を叡賢され給う。
この角力が今日伝承され毎年奉納されている。また黄牛を奉納されたとも伝えられている。
その他武門、武将の尊祟厚く、後小松天皇 の應永年中、京極高光の建立せし
伽藍等蛾ありしが、数度の兵燹に罹りまた織田信長 の叡山諸院を焼亡するや、
神官、僧侶等これをおそれて自焼し、古記録ことごとく焼 失する。社殿は、亨保八年(一七二三年)三月に再建され、
拝殿等は寛政年中に落成されたものである。明治十四年三月に列し、明治二十四年内務省より古社保存資金を受け、
大正十年五月 県社に昇格せられる。
それで、興味深いのが、この日撫神社の由緒で、、、
ここには、後鳥羽上皇に角力(相撲)を奉納されたことが示されています。
(ただし、相撲については、ここでは深く触れません)
また、それと同時に、「黄牛が奉納された」ことが書かれています。
いったい、なぜ、わざわざ黄牛が奉納されているのでしょうか?
ここまでの記事を見ていた方なら、その理由が分かるはずです。
すなわち、ツヌガアラシトの話に、犠牲としての牛が
【黄牛(あめうし)】であった事が示されています。
都怒我阿羅斯等が自分の国にいたとき
黄牛(あめうし)に田器を負わせて耕作に向かう途中、牛が急にいなくなった。
捜したところ、郡公(むらのつかさ)らが殺して食べた後であった。
こう考えると、後鳥羽上皇は、日撫神社とツヌガアラシトの関係を、
よく知った上で、この地に、黄色の牛を奉納した・・・と言う事が分かります。
実際、この日撫神社には、「黄牛塚」というのがあり、
この牛を、埋めたと言われる塚も残っています。(実際は、かなり古い古墳だそうな)
▼黄牛塚の碑
なお、以前も言ったかもしれませんが、この顔戸の近くの米原市は、
天の川も近くにあり、日本の七夕の発祥地とも言われている地域です。
こういう場所に、黄牛(あめうし)が奉納されていることは、
七夕伝説を調べる上でも、なかなか興味深い事実だと思います^^
ちなみに、犠牲になる牛は、時代によって、幾つかのモデルがあります。
今回紹介した、日撫神社の黄牛は、「牽牛の牛」の一つのモデルに過ぎません。
もっと古代には、その牛の元になった人物も存在しています(謎)
取りあえず今回は、「ホトを衝かれた女性」の繋がりで、天日槍伝説を取り扱いました。
次回以降は、その他の「ホトを衝かれた女性」の謎解きもしていこうと思います^^
最後に、余談ついでで言いますが、ツヌガアラシトは、新羅の皇子ではありますが、
それ以外のモデルとして、聖書のモーゼの姿も、一緒に仮託されています。
それは、名前から見ても明らかです。
ツヌガアラシト=角がある人です。
(都怒我とは、角額のことで、額に角がある人のこと)
実際、モーゼも、しばしば、額に角があるように描かれます。
そして、モーゼの場合も、十戒石板を神から貰う際、
金の牛を葬って居ることは有名です。
こう言うところから考えると、ツヌガアラシトのストーリーには、
モーゼの物語も一緒に仮託されていると考えられます。
そして、そういうところから察するに、記紀編纂には、
そういう聖書の思想を知っていた人物が書いていると疑われると同時に、、、
当時、日本に来た渡来人は、聖書の知識を知っている人々がやって来た
・・・と捉える事も出来るのです。
そう考えると、やはり、アメノヒボコの話で、
太陽の光でホトを衝かれて懐妊した女性は、聖母マリアがモデル、、、なのかもしれません。
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