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2013年3月21日
今まで、下記の通り、「七夕の謎」というテーマで、色々考察を続けてきました。
途中、近江の式内社や継体天皇の話など、
七夕とあまり関係ないだろ?と思われる話もあったかもしれません。
しかし、それらも、全て日本の七夕伝説と密接に関わってきているのです。
戦後、記紀の見直しが図られる中で、天皇家の出自も見直されるようになり、
そこで"継体天皇の出自の議論"も活発に行われるようになったのですが・・・
残念ながら、これまでに、継体天皇と七夕伝説を
結びつけて議論してきた方は、誰一人として居ないようです。
「継体天皇 七夕」と検索しても、当サイトがトップにくるくらいなので、
マニアック過ぎて誰も研究して無いテーマなんでしょうね(苦笑
・・・と言う事で、管理人が初めて、
「七夕」の風習の観点から、継体天皇の謎解きを試みている訳なんですが、
それを語るには、まだ他にも、色々と予備知識が必要なんですよね^^;
・・・
・・・
と言う事で、一旦、継体天皇の話は、置いといて。
今回は「七夕の風習の伝播経路」について考えて見たいともいます^^;
すんげぇ、マニアックな話題ですけど、読者の方は我慢してついて来て下さいm()m
さて、「日本の七夕伝説」に触れる前に、今までの復習も兼ねてまして、
七夕の風習が日本に伝わる前までの話をします。
(※七夕が伝わる過程=イスラエル民族が日本に辿り着くまでの経緯を探る旅でもあります)
七夕の起源については、「七夕の謎②七夕のルーツは古代エジプトにあった」の記事で
既に解説した通り、紀元前1800年頃の古代エジプトの神々にまで、その起源を遡る事が出来ます。
聖書の民イスラエル民族が、ナイル川を天の川として、ヨセフ-アセナテの夫婦を、
牽牛と織姫に見立てるとともに、聖牛を河に沈めて祀ったことが七夕の起源です。
▼河に沈められた聖牛アピス
聖牛アピスは、その後、ヨセフがモデル化されたアメン神(アモン神)とも結びつき、
聖書の出エジプト記に見られる「金の仔牛像」信仰へと変化していくことになります。
(※出エジプトは、エジプトでの400年間の奴隷生活を経た紀元前1300年頃と推測されます)
その後のイスラエル民族は、約束の地カナンでイスラエル王国を建国しますが、
紀元前928年には、イスラエルが北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂してしまいます。
その後、紀元前722年には北イスラエル王国がアッシリアに攻められ滅亡し、
イスラエル人はアッシリアに強制移住させられます。(アッシリア捕囚)
一方、残った南ユダ王国も、紀元前586年に新バビロニアに攻められて、滅亡します。
ユダヤ人も、バビロニアに強制移住させられることになります。(バビロン捕囚)
※当記事中では、北イスラエル王国の民をイスラエル人、南ユダ王国の民をユダヤ人と分けて呼びます。
一般に、北王国のイスラエル人の事を「失われた10支族」と呼んでいます
イスラエル人については、その後、アッシリアを滅ぼしたスキタイと合流し、
一部はトルコ東部のクルディスタンに移り、また一部はアフガニスタン北部に移住したようです。
そして、その後、彼らはシルクロードやステップロードなどから、
東アジアに分散していったと考えられています。
(参考:Y染色体DNAの日本への移動とイスラエルの移動ルート)
また、ユダヤ人もバビロン捕囚後、一部は祖国イスラエルに帰還しますが、
残りの人々はバビロニアに留まった後、シルクロードルートを通じて、
東アジア方面に散っていったとされています。
こうしてイスラエル民族は、イスラエル人もユダヤ人も、東アジアに散っていきますが、
やがて、イスラエル民族は、中国西域の方面で一大勢力となります。
当時、中国における西域の国の一つに、秦という国がありましたが、
この秦は、秦の始皇帝の時代(紀元前210年)には、中国全土を統一するまでになります。
さて、秦の国は、紀元前770年頃に甘粛省の犬丘で建国されていますので、
元々の秦の王家は、イスラエル民族とは、全く関わりがありません。
しかしながら、イスラエル民族が中国西域に集まりだし一大勢力となった時期に、
秦の重要ポストに就いた"イスラエル民族らしきも人物"も現れます。
<イスラエル民族の特徴>
エジプトのヨセフ、新バビロニア王国のダニエル、アケメネス朝ペルシャのモルデカイ、
そして、日本の聖徳太子(秦河勝?)などに見られるように、イスラエル民族は、
異民族国家の中でも、国の重要ポストに就く習性があります。
秦の国も例外ではなかったらしく、荘襄王の時代(紀元前251年~前246年)に、
各国を渡り歩いた大商人であった呂不韋が秦の丞相となります。
▼呂不韋
この呂不韋ですが、一説にユダヤ人であるとされており、
さらに、後の秦の始皇帝"政"の実の父親であったとも言われています。
▼秦の始皇帝 政
この秦の始皇帝が、「荘襄王の子供なのか?それとも呂不韋の子供なのか?」
と言うのは、残念ながら、今となっては知る術がありません。
しかしながら、秦の始皇帝は、紅毛碧眼だという伝承があり、
その容姿は、明らかに漢民族ではなく、ペルシャ系統の特徴と合致します。
<注釈:アケメネス朝ペルシャについて>
旧約聖書の「エステル記」には、アケメネス朝ペルシャには、
南ユダ王国から連れて来られたユダヤ人が、数多く住んでいた事が書かれています。
(エステル記第2章5節~)
さて首都スサにひとりのユダヤ人がいた。
名をモルデカイといい、キシのひこ、シメイの孫、ヤイルの子で、ベニヤミンびとであった。彼はバビロンの王ネブカデネザルが捕えていったユダの王エコニヤと共に
捕えられていった捕虜のひとりで、エルサレムから捕え移された者である。※ベニヤミンびと=南ユダ王国の民族です
このように、状況証拠としては、秦の始皇帝がユダヤ人であった可能性があります。
また、これも状況証拠でしかないのですが・・・
秦の始皇帝がユダヤ人だった証拠として、漢字の存在があります。
現在、日本人も使用している漢字は、秦の始皇帝の時代に統一されたものです。
そして、漢字には下記のように、明らかに聖書の思想を含んでいると考えられます。
船(舟+八+口)
・・・ノアの箱舟に乗った人数が合計8人禁(木+木+示)
・・・エデンの園にあった「生命の樹」と「知識の樹」の2本の木とともに、
「知識の木の果実は食べる事を禁ずる」と神から示された魔(广+木+木+鬼)
・・・二本の木にを住処として、イブを誘惑したを蛇(鬼)を指す裸(衣+果)
・・・アダムとイブが知識の樹の果実を食べて、お互いが裸であることを悟った呪(口+兄)
・・・アダムとイブの子供で、聖書で最初に呪われた人物カインを指す
カインは、アベル(※アベルには口の意味がある)の兄神(示+申)
・・・「示」は神を祀る祭卓を示し、「申」は稲妻を表す
旧約聖書中では、神が電撃を打たれる場面が多々見られます秦(三+人+ノ+木)
・・・三人の木で"生命の樹"を暗示し、天の三神を示す
※始皇帝が漢字を統一する前までの秦の字は、 籀文で「秦=午+(左右の)手+(2つの)禾」で構成されており、 秦を三人ノ木と、漢字分解する事はできません
あくまで、状況証拠にしか過ぎませんが・・・
こうした文字の統一という国家的なプロジェクトにおいて、
その中心たる漢字に聖書思想が入っているという事は、秦の始皇帝の時代に
イスラエル民族が、国家の中心にいた事を示す傍証とはならないでしょうか。
さて、インターネットやテレビ、電話などが無かった時代、
遠く離れた地域間では、情報の伝達は、人と人の伝聞によって為されました。
しかし文化や風習レベルのものは、単なる情報のやり取りでは決して伝わらないものです。
文化や風習が伝わるためには、必ず"大規模な民族の移動"が伴います。
そういう意味で調べると、エジプトのイスラエル民族発祥の「七夕」が、
(皆さんご存知のように)中国にまで文化レベルで伝播しているのは明らかです。
※中国では、7月7日の夜、織女に対して手芸上達を願う
乞巧奠(きっこうでん)という祭が今も残っています。
しかも、中国の七夕の行事も、相当起源が古いモノです。
孔子(紀元前551年~紀元前479年)が書いたと言われる、
「詩経 国風編」には、星の名称として織女と牽牛という名が既に見られます。
これが中国における七夕に関する語句の初見です。
ただし、この時代は、あくまで星の名前として伝わっているだけで、
七夕のストーリーや、七夕にまつわる文化・風習といったものは見られません。
七夕の風習が、古代中国で文字通り見えるのは、前漢時代になってからです。
前漢時代の司馬遷(紀元前145~紀元前86年?)が書いた「史記」には、
下記のような記述があります。
「牽牛為犠牲」
「職女、天女孫也」
さらに、前漢の武帝の頃、淮南王劉安(紀元前179年~紀元前122年)が
学者を集めて編纂させた「淮南子」(えなんじ)には、下記の内容があります。
角もなく尾も欠いた醜い雑色の牛は、鼻につなを通し覊(おもがい)かけて ひっぱられるが、それが生んだ子が犠(いけにえ)「純色で傷のない牛を用いる」になると、 それを尸祝(ししゅく)は斎戒して河に沈めて祀(まつ)る。
上記は、参考文献:「七夕と相撲の古代史」より引用
上記の前漢時代に見られる「牛を河に沈めて祀る」行事は、
今も日本の七夕行事として残っている「牛洗い」の原型です。
▼七夕行事の牛洗い(※下記では本物の牛は使われず、木牛で代用)
【上記の写真は、「ちばとぴ」より引用】
このように、少なくとも、前漢時代(紀元前206年~8年)には、
古代中国において、文化レベルで、七夕の風習が行われている訳です。
そして、大事な事ですが、前漢はあくまで漢民族の国家です。
前漢の建国時、漢民族の高祖劉邦は、功のあった韓信などの諸侯王までをも粛清し、
自らの親族を諸侯王に付け「劉氏にあらざる者は王足るべからず」という体制を構築します。
こんな大粛清時代に、異民族の風習を受け入れる土壌があったとは到底考えられません。
だとすると、「七夕」という風習を古代中国にもたらしたのは、
前漢時代よりも前である可能性が、非常に高い訳です。
こうした考えを元に、前漢の前の国を調べると、何と書いてあるでしょうか?
そうですね。
やっぱり秦という国しか考えられず、
「七夕の風習が伝わったのは秦の時代」というのが最も妥当な考えになる訳です。
では次に、秦の時代(紀元前2世紀)の段階で、エジプト由来の七夕を、
中国にまで、文化レベルで伝播させた民族とはどんな民族か考えて見て下さい。
・・・
・・・
ぱっと考えて見ても、、、
そんな古代に、エジプトから中国にまで、大規模な民族移動をしたのは、
イスラエル民族以外に、あり得ないと言う事が分かるのではないでしょうか。
と言う事で、「イスラエル民族が秦の時代に中国に七夕という風習をもたらした」
・・・というのが管理人の結論です。
あと、もう一つ大事な事なんですが、、、秦に七夕の風習をもたらしたのは、
ペルシャ経由の南ユダ王国のユダヤ人が中心になっている可能性が高いです。
これは秦の始皇帝の容貌がペルシャの特徴を備えていたり、
秦の元々の国の位置が、ペルシャと近いのもあるんですが・・・
それ以外にも、秦の国家の支配形態が理由として挙げられます。
それまで、誰も為し得なかった中国全土の支配を、
突然、秦の始皇帝が成し遂げられたのは何故なのか?
それは、始皇帝はそれまでの血縁による支配をやめ、
地方官を派遣して統治するペルシャの中央集権制に習った事が大きいと思われます。
これにより、戦争時に素早い軍事行動が取れたとともに、
優れた指揮系統により、中国全土の統一を早めるきっかけになったのだと思います。
下記は、「シルクロード渡来人が建国した日本―秦氏、蘇我氏、藤原氏は西域から来た」より引用
始皇帝は、祖国であるアケメネス朝ペルシャの制度に習って、全国に郡を置き、
官僚制度と軍政を確立し、度量衡・貨幣・文字の統一を行い、
強制労働によって万里の長城を建設、始皇帝量の建設、
灌漑や舟運のための水路の整備、交易のための道路の整備などを強行した。
これらの大土木工事を指揮したのはユダヤ人の石工、建築技師であろう。
▼秦の郡県制
※日本の701年に制定された大宝律令時の国郡里制に似てます
よくよく考えれば、古代においては万里の長城や兵馬俑なども、
ユダヤの石工の優れた技術無しには、成立し得ない建築物だったかもしれません。
▼万里の長城(ただし写真は明代)
※現存する万里の長城のほとんどは、明代のもので、秦代のものはもっと規模が小さいものです
▼兵馬俑 始皇帝陵(紀元前221-同206年)
※最近では兵馬俑の眠る始皇帝陵の陪葬墓から出土した人骨がペルシャ系のDNAと同じ特徴を持つ男性の骨と分かっています
こういった建築物も、秦は始皇帝時代に飛躍を遂げており、
その裏に、ユダヤ人が関わっている可能性は、大きいのではないでしょうか。
という訳で、始皇帝が中国を統一できた背景には、
ペルシャを模倣した中央集権制度やそれを支えたユダヤ人の力があったと推測されます。
前述の通り、ペルシャは、元々、南ユダ王国のユダヤ人が多く存在していた国であり、
秦にペルシャ由来の政治体制や文化・人の流入が認められると言う事は、
「秦」の国に、南ユダ王国のユダヤ人が多く流入したと考えらる訳です。
(もちろん、それ以外に北イスラエル由来のイスラエル人も居た可能性はあります)
さて、中国の秦時代には、ペルシャ由来のユダヤ人が多く流入していますが・・・
前述の「史記」や「淮南子」の記述に見られたように、
七夕の風習は、ほぼそれと同時期に行われているのが、文献で確認できます。
こう言うところから察するに、、、
中国の七夕の基本的な風習は、ペルシャ経由で南ユダ王国のユダヤ人によって持ち込まれた。
・・・と解釈するのが妥当ではないかと思います。
<注釈>
ただし、中央アジア方面や北方方面からの、イスラエル人由来の
七夕の伝播の可能性も考えられるため、中国の七夕の風習の全てが、
南ユダ王国のユダヤ人によるものでは無い可能性がある事もお断りしておきます
以上述べた通り、中国にも、エジプト由来の七夕という行事が伝わっていますが、
古代中国においてどのように扱われたのか?を調べて見る価値があります。
そこで、「中国における具体的な七夕伝説」にも少し触れておきます。
この記事の最後に、中国の七夕伝説について述べます。
少し長いですが、中国では、七夕の話が、
民間戯曲「天河配(てんがはい)」として現在も伝わっています。
そして、この七夕ストーリーの中には、あの「杼(ヒ)」がちゃんと出てくるんです。
<中国の七夕伝説>
http://byeryoza.com/china/topic/yomoyama/culture/tanabata.htm※中国語では牽牛は牛郎といいます。
牛郎は幼い頃に両親と死別して、兄と兄嫁の3人で暮らしていました。
毎日牛の世話や番をしていたので人々は彼を牛郎と呼ぶようになりました。
兄嫁は外面はよいものの牛郎のことを毛嫌いしていましていつもいじめていました。ある日草原に餌を食べさせに牛を連れて行き、
木陰でうつらうつら眠りこけていると、夢の中で牛が話し掛けてきました。「あなたのお兄さんはいい人だが、兄嫁は腹黒い女で、おまえさんを殺そうとしている。
今日の夕飯に兄嫁はおまえさんにうどんを食べさせるだろうが、
毒が入っているから絶対食べてはならないよ。いつまた殺されるかわからないから、おまえさんは早くあの家を離れなさい。
家を出るときには牛をもらって出るようにしなさい。」牛郎が目を覚まして見ると、いつもと変わらぬ光景で、
牛はもくもくと草を食っていました。
"奇妙な夢をみたもんだ"と思いながらも夕方になって家に戻ると兄嫁が
「牛郎!おなかがすいたでしょう。うどんを作ったから熱いうちに食べなさい。」"これは夢で見た通りだ!どうしよう"。
牛郎はどうしてよいのかわからずどんぶりを手にたじろいでいると、
それを見かねた牛がどんぶりに角を当ててうどんは地面に落ちてしまいました。そばにいた犬がそのうどんを食うとすぐさま血を吐き死んでしまいました。
牛郎は正夢だったことを感じて、牛を連れて兄の家を出ました。実はこの牛はそんじょそこらの牛ではなく、
天上界の金牛星が生まれ変わって人間界に出現した牛なのでした。一人暮らしをはじめてしばらくした頃、牛郎はまた奇妙な夢を見ました。
「牛郎。明日は七人の天女が森の奥の池で水浴びをする。
天女の1人は天帝の許しを得て下凡(下界の人間になること)する予定なので、
木の枝にかかっている天衣を奪ってしまえばもうその天女は天界に戻れない、
おまえはその天女と結婚しなさい。」※この部分は、日本の「はごろも」伝説と同じである事に注意!
翌日牛郎は早速牛に言われた通り、
七人の天女の中の織女の天衣を隠して、予言どおりに夫婦となります。牛郎は牛を連れて畑仕事をし、織女は機を織る。
二人は普通に幸せな生活を営み二人の子供にも恵まれました。
月日はたち、牛郎は再び奇妙な夢を見ます。「織女の下凡は明日がちょうど7年目の満期になるので、
天帝の命令によって天界に帰らなければならない。
だが、一つだけ連れ戻す方法がある。私(牛)を殺して皮をはぎ、明日、織女が天に昇るとき、
子供達と共にその皮をかぶって追いかけるのだ、旨く捕まえられれば連れ戻すことができる。」※この部分の「皮をはぐ」は、逆剥ぎの天の斑駒に通じるものがあります
そう教えると牛は自ら岩に頭をぶつけて死んでしまいました。
牛郎は涙を流しながら牛の皮をはぎ
子供達を乗せるために二つの籠と天秤棒を用意しました。翌朝、織女は今まで織った機を牛郎に手渡し、二人の子供に別れを告げました。
織女も天帝の命令に逆らうことができません。子供の手を振り解き泣く泣天下に戻っていくと、牛郎は用意した籠に子供を入れ、
天秤棒で担ぐと牛の皮を着て追いかけました。もう一息で手が届くその瞬間、王母娘(天帝の妻で織女の母親)が
かんざしで二人の間に線を一本引きました。
個の線が「天河」となり、二人を東西へと引き離してしまいました。牛郎は織女に形見の「首木」
(鋤や鍬や牛車を引かせるために牛の首につける鞍のようなもの)を投げ、
織女は牛郎に「杼」(ヒ、機織するときに縦糸に横糸を通す道具)を投げました。※この部分の杼は、まさに記紀の織女が杼でホトをついて死んだ原型が見えます
二人の悲しむ姿を見かねた「喜鵲(かささぎ)」は
毎年七夕の日には群れとなって自らの体で「喜鵲橋(シーチェチャオ)」を作り、
牛郎と織女をこの橋の上で再会させることになりました。夜空を見上げても、どれがどの星なのかよくわからないのですが、
天の川の東に三つ並んだ星があり、真中の一番明るいのが牛郎で、
その両脇の小さな星が二人の子供だそうです。その左には織女が投げたひし形の「杼」があるそうです。
川西には四つの星があり、一番明るいのが織女の星で
その右には牛朗の投げた「首木」が三角形の星となっています。
いかがでしょうか。
記紀の中で、天照大神の織姫が、杼で女陰を突いて死んだ、、、というのは、
この中国の七夕の話がルーツになっているように思いませんか。
また、同時に、そのストーリーに、天の星座も呼応しています。
▼2013年8月13日午前1時(旧七夕の夜明けの晩)(クリックで拡大します)
あと、この星座配置を見ると、天の川が東西を分断している様子が良く分かります。
「天河配」のストーリーは、元々、牛郎と織女が西王母によって
天の川を隔てて、東西に引き離されたと言うストーリーが元になっています。
だからこそ、天の川は、南北方向に縦断する必要があった訳ですね。
と言う訳で、こういう七夕のモデルを、しっかり理解しておくと、
日本の七夕や記紀神話も、より深く解く事が出来るんじゃないかと思います^^;
最後に西王母ですが、Wikipediaにはこうも書いています。
人間の非業の死を司る死神であった西王母であったが、
「死を司る存在を崇め祭れば、非業の死を免れられる」という、
恐れから発生する信仰によって、徐々に「不老不死の力を与える神女」という
イメージに変化していった。やがて、道教が成立すると、西王母はかつての「人頭獣身の鬼神」から
「天界の美しき最高仙女」へと完全に変化し、不老不死の仙桃を管理する、
艶やかにして麗しい天の女主人として、絶大な信仰を集めるにいたった。
上記の通り、西王母には、鬼人や不老不死にまつわる伝説があります。
それと同時に、桃が出てくるところも見逃せないポイントです。
この部分も、記紀の誰かさんの記述を、思い出させませんか?
記紀を読んだことのある人なら、すぐお分かりますよね^^
そう、桃とくれば、あの人です。
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※結局は、日本人がいつも神棚に祀る「お米・水・塩」の3つを確保することが、人間が生きる上で重要な訳です^^