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2013年6月10日
以前、「交野市の七夕伝説の謎を追え!」という記事で、
国内の七夕由緒地について書きましたが、今回は、その第二弾です^^
交野市もかなり古くからの七夕由緒地ですが、
実は、もう一つ、日本古来の七夕由緒地があります。
それが、滋賀県米原市の朝妻筑摩の地域です。
この朝妻筑摩の地域は、元々、古代豪族である息長氏の勢力圏であり、古代から
東海・北陸地方の人の行き来や荷物の運搬など、湖上交通の要港として発展してきています。
奈良時代には、筑摩付近に大膳職御厨(朝廷の台所)がおかれ、
北近江、美濃、飛騨、信濃国等から朝廷に献上物、税物、また木材、食糧などと合わせて、
役人、商人などを運ぶための定期便が大津・坂本港へ出ていたそうです。
いわば、湖上交通の要の場所が、この朝妻筑摩だったのです。
そんな地域に、七夕伝説が、しっかり残っています。
まず、特筆すべきなのが、この地域を流れる"天の川"の存在です。
交野の七夕伝説も、(大阪の)天の川流域に見られるように、
近江の七夕伝説もまた、天の川の流域に存在します。
▼天の川(滋賀県米原市)
なお、この天の川流域は、奈良時代の壬申の乱の戦いの舞台にもなっています。
この地で起こった、近江朝廷軍と大海人皇子軍(後の天武天皇)による
最大の戦闘、天下分け目の戦いが、「息長横河の戦い」だったのです。
▼息長横河の戦いの主戦地域と思われる場所
(↓国道21号線 津島神社付近)
(↓横河?の可能性のある梓川)
この「息長横河の戦い」の起きたのは、西暦672年7月7日(旧暦)です。
そう、、、実は、ここにも、七夕が関わってきています。
ちなみに、この7月7日には、奈良方面(当麻)でも「当麻の戦い」が起きており、
本格的な戦争が起こる契機が、七夕だったと考えられます。参考文献:壬申の乱を歩く (歴史の旅)
そう考えると、七夕には何か、不思議な力があると感じざるを得ませんし、
後の天武天皇が、七夕を重視した理由も、分かる気がします。
ただし、この近江の天の川周辺に残る七夕伝説は、
奈良時代の壬申の乱が起こるよりも、もっと前から存在しています。
それは少なくとも、、、雄略天皇の時代まで遡る事が出来てしまうのです。
天の川の下流域には、朝妻神社なるものがあります。
下記が、朝妻神社です。
▼朝妻神社(滋賀県米原市朝妻筑摩)
昔、牛頭天王社と称していたが、明治元年朝妻神社と改称された。
かつては朝妻港に近く、境内は壕に囲まれ、
その中央の古墳のような丘に鎮座し、法性寺の鎮護神として建立された。
この神社の裏手(西側)には、なんと、"彦星の墓"があります。
(神社の境内からは、少し外れた所にあるので、見つけづらいかも)
彦星塚ともいわれているこの墓は、
雄略天皇第四皇子、星河稚宮(ほしかわのわかみや)皇子の墓です。
▼彦星塚(星河稚宮皇子の墓)
ちなみに、この星川皇子は、日本書紀によると、雄略天皇が亡くなった直後の
雄略天皇23年に、反乱(謀反)を起こして亡くなった悲劇の人です。
<日本書紀 雄略天皇条より>
雄略天皇は吉備上道臣田狭が自分の妻・稚媛の美しさを自慢するのを聞いて、
田狭を任那の国司として派遣した後で、稚媛を奪って妃とした。
こうして磐城皇子と星川皇子が生まれた。稚媛は雄略天皇が死ぬと、星川皇子に反乱を起こすよう説いた。
星川皇子は母の言葉に従い、反乱を起こし、大蔵を占領した。しかし大蔵に火を放たれ、星川皇子と稚媛のほか
異父兄の兄君(田狭と稚媛の子)など従った者の多くが焼き殺された。
その星川皇子の墓が、なぜか、この近江の天の川の近くあります。
星川皇子は、大蔵を占領し、そこで焼き殺されたとありますが、
もしかすると、その事件のあった大蔵は、この朝妻筑摩にあったのかもしれません。
ともかく、この星川皇子が、朝妻筑摩の七夕伝説における牽牛の役割を演じています。
一方、織姫の方は、天の川を挟んで対岸に蛭子神社があります。
下記が、蛭子神社です。
御祭神 事代主命 〔配祀神〕須佐之男命
近江国坂田郡志によると「延暦年中南部興福寺の仁秀僧正、
此の地に伽藍を建て、其の守護神として祭祀する所なりと。境内に朝嬬皇女の墓と称するありて、高三尺余周囲三尺余の自然石なり。
此の石を吾嬬石又は七夕石と言ふ、依りて当社に朝嬬皇女の霊を合せ祀ると言ふ、
或は言ふ、星河稚宮皇子をも合祀せりと」
この蛭子神社の境内には、七夕石があります。
仁賢天皇の第二皇女、「朝嬬皇女」(あさづまのひめみこ)の墓と言われているそうです。
このように、織姫と彦星の墓が、それぞれ、天の川を挟んで配置されており、
それが、この朝妻筑摩の地での七夕伝説になっています。
- 牽牛・・・雄略天皇の第四皇子 星川皇子
- 織姫・・・仁賢天皇の第二皇女 朝嬬皇女
以上が、近江の朝妻筑摩の七夕伝説の概要です。
ただし、管理人が思うに、日本書紀などを読んで調べてみたところ、、、
雄略天皇の死の直後に、反乱を起こして死亡した星川皇子と、、、
雄略天皇の後に清寧天皇⇒顕宗天皇を経て即位した仁賢天皇の娘の朝嬬皇女とでは、
・・・ちょっと時代が噛み合わないように思われます。
世代的にも、星川皇子と朝嬬皇女とでは、少し世代が離れているのが分かります。
『日本書紀』では、仁賢天皇元年2月2日(488年2月29日)に、
春日大娘皇女が、仁賢天皇の皇后となった事が書かれていますので、
春日大娘皇女の第二皇女である朝嬬皇女が成人するのは、少なくとも西暦500年以降です。
一方、雄略天皇が亡くなったのは、雄略23年(西暦479年)とされますが、
その死の直後に、星川皇子の反乱があったとされるので、それは西暦479年の出来事となり、
その頃には、朝嬬皇女は、生まれてさえもいない状況になってしまうのです。
これでは、牽牛と織姫の伝説が、成立しなくなるのです。
※ただし、梁書の502年の倭王武の記述から、雄略天皇はもっと長く生きていたという説もあります
ですので、管理人は、星川皇子の墓はともかくとして、、、
仁賢天皇の娘の朝嬬皇女の織姫の設定は、後世で付会されたものと考えます。
(朝嬬皇女の具体的な事績が無く、名前もあまり良い名前ではないので、架空人物の可能性もあります)
ただし、色々考えていくと、分かるんですが・・・
この朝妻筑摩の「仁賢天皇の娘の朝嬬皇女の墓」は、単なる偽物でもありません。
恐らく、後世の権力者によって隠された大きな歴史の謎が、ここに隠されています。
まぁ、現時点では、それについては、あまり多くを語れないのですが・・・
「浦島太郎」にヒントがある!・・・とだけ述べておきます^^;
※日本書紀では、星川皇子の話の直前に浦嶋子の話が記述されています
その他参考資料:よつぎ史
さて、もう一つだけ、紹介しておきます。
七夕とは少しかけ離れますが、、、
この朝妻筑摩地域における、重要な祭りについてです。
下記は筑摩神社でと言い、 この地域でも、かなり歴史の古い神社です。
御祭神 御食津大神 宇迦乃御魂神 大年神
社伝によれば、孝安天皇28年に創祀され、
継体天皇が越前から上京する際に、当社のそばに行宮を設け、
社殿を再建して神域を定めたとされているが、
鎮座地は桓武天皇の時代に内裏大膳職の御厨が置かれた地なので、
その鎮守として御食津神を祀ったものとも推定されている。
なお、御厨は延久2年(1070年)に廃された。
孝安天皇の時代って、、、どんだけ古いんだって感じですね。
それで、実は、この筑摩神社には、日本三大奇祭のうちの一つ。
鍋冠祭(なべかぶりまつり)が行われています。
このお祭りは、、、
今まで女性が、男と関係を持った人数分の数だけ、頭に鍋を被る祭りです(笑
しかも、数を偽ったりすると神が天罰を下すというオマケまでついてます。
そんな訳で、ビッチな女性は、この祭りに参加すると、とても恥ずかしい目に逢います。
なので、現代では、数え年8歳前後の少女しか、参加してないお祭りなんです^^;
こんな奇妙奇天烈なお祭りですが、その歴史は古いです。
在原業平の「伊勢物語(百二十段)」にも、この鍋冠祭が和歌で読まれています。
<伊勢物語(第百二十段) の現代語訳>
昔、男が、まだ男を持った経験がないと思われた女が、
あるお方のところで、人目を忍んで情をお交しするようになって後、
しばらくたって(女に次のような歌を送った)近江なる 筑摩の祭 とくせなむ つれなき人の 鍋の数見む
(近江の筑摩神社の祭を早くして貰いたいものです、
私には冷淡なあなたのかぶる鍋の数を見てみたいものです
―あなたの男の数がどんなに多いか早く知りたいものだ)
まぁ、管理人が考えるには、鍋冠祭りや朝妻の地名の由来は、朝妻船にあるんじゃないかと思います。
古来、この地域には、湖上で客を取る遊女船があったのではないかと思います。
そういった船を朝妻船と言いますが、そうした風紀の乱れを正すために、
この鍋冠祭りは存在してたのではないでしょうか。
朝妻の地名も、恐らく、そういった女性の事を指すと思われます。
七夕も考えて見れば、男と女の一夜の出会い、、、そして別れです。
七夕伝説が、この朝妻筑摩にあるのも、何となくわかる気がしませんか?
<尚江千軒遺跡について>
余談ですが、鍋冠祭の天罰かどうかは分かりませんが・・・
過去に、この筑摩神社の付近で、地震で丸ごと水没してしまった村が存在します。それが尚江千軒遺跡です。
昔は、ここに「神立」と「西邑」の2集落があったはずなんですが、
それが、正中2年(1325年)の地震で、一夜にして、琵琶湖中に消えています。神の神罰、、、なのでしょうか?
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