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2013年5月14日
皆さんは、「伊勢の地名の由来」をご存知でしょうか?
ここ最近、管理人は「阿波(徳島)が原初の伊勢だった!」という持論を展開していますが、
伊勢の地名の語源を詳しく調べると、よりそれがハッキリ分かります。
▼以前の参考記事
また、この伊勢の地名の謎を調べることで、、、
"相撲の起源"や"出雲の国譲り"の真相も、おぼろげながら分かってくるのです。
今回は、そんな伊勢の地名の起源について、考察したいと思います^^
伊勢の地名の由来は、伊勢国の風土記逸文『国号の由来』に書いてあります。
ちょっと長いですが、まずは、風土記の文章をよくご覧下さい。
<伊勢国 風土記逸文『国号の由来』>
伊勢の国の風土記にいう、――
そもそも伊勢の国は、天御中主尊の十二世の孫の天日別命が平定した所である。天日別命は神倭磐余彦の天皇(神武天皇)が、あの西の宮(日向)から
この東の洲(くに)を征討された時、天皇に随って、紀伊の国熊野の村に着いた。その時、金色の烏の導くままに、中州(なかつくに)に入って
菟田(うだ)の下県(しもつあがた)においでになった。天皇は、大部(おおよも)の日臣の命に勅して
「逆賊、胆駒(生駒)の長髓(ながすね)を早く平定せよ」と仰られた。※大伴氏の遠祖の日臣命(ひのおみのみこと)が、大来目(記では大久米命)を率いたとされる
また天日別命に勅して
「遥か天津の方に国がある、ただちにその国をたいらげよ」と仰せられて、
天皇の将軍としての徴の剣を賜った。天日別命は、勅を奉じて東に入ること数百里であった。
その邑に神があって名を伊勢津彦といった。
天日別命は、「汝の国を天孫(神武天皇)に献上したらどうか」と問うた。
すると答えて
「私はこの国を占拠してから長いこと住んでいる。命令には従いかねる」といった。天日別命は、兵を発してその神を殺そうと思った。
するとその時恐れて平伏して申し上げるには、
「私の国はことごとく天孫にたてまつりましょう。
私はもうここにいるようなことは致しますまい」といった。天日別命は問うて、
「お前がこの国を去った時、何をもってそれを証拠だてるか」といった。すると申し上げて言うには、
「私は、今夜、八風(大風)を起こし海水を吹き上げ、
波浪に乗って東の方にまいりましょう。
これがすなわち私が退却したという証拠です。」と。天日別命は、兵を整備してその様子を窺っていると、
夜更けになって、大風が四方に起こり、大波をうち上げ、太陽のように光り輝いて
陸も海も昼のように明るくなり、ついに波に乗って東に去った。古語に「神風の伊勢の国、常世の浪寄する国」というのは、
つまりこのことをいうのである。
(伊勢津彦の神は、近くの信濃の国に住ませた。)
天日別命は、この国を手なづけて天皇に復命した。
天皇は大層喜ばれ、詔して
「国の名は国つ神の名を取って伊勢と名づけるがよい」と仰せられ、
やがて、天日別命にその国の統治を任せ、宅地は大和の耳梨の村に賜った。(ある本にはこういっている。
――天日別命は、勅命を受けて熊野の村から真っ直ぐ伊勢の国に入り、
荒ぶる神を殺し、服従しない者を罰し、山川の堺をたてて、村々を定め、
そうしてから後、橿原の宮に復命した)
上記のとおり、伊勢の名前の由来は、
"伊勢津彦(いせつひこ)"という神の名前に由来します。
この伊勢津彦は、神武天皇の東征の際に、
神武天皇から将軍を任された天日別命によって伊勢から追い払われた神です。
しかし、地名に負けた敗軍の神の名を宛てるのは、不自然だとは思いませんか?
何やら、違和感を感じざるを得ません。
さらに、将軍としての徴の剣を賜っているのも、おかしいと言えばおかしいです。
※以前「金太郎の謎」で述べた通り、神功皇后や継体天皇の時代は、将軍の徴は剣では無く鉄斧だった
▼神功皇后の剣入鉞(マサカリ)(山津照神社蔵)
このような事から、伊勢津彦には、何やら秘密が隠されていそうなのですが・・・
その秘密は、風土記逸文の別の個所で暴露されています。
さらに、伊勢国の風土記逸文『伊勢の国号(一)』には、
下記のようにも書いてあります。
<伊勢国 風土記逸文『伊勢の国号(一)』>
伊勢の国の風土記にいう、――
伊勢というのは、伊賀の安志(あなし)の社においでになる神は、
出雲神の子 出雲建子命、またの名は伊勢津彦の神、またの名は天の櫛玉命である。この神は、昔、石で城(防塞)を作ってここにおいでになった。
ここに阿倍志彦神が来襲してきたけれども、勝つ事ができずに還り去った。
それによって名とした。云々。
上記は、実は、凄い事が書かれています。
すなわち、、、
伊勢津彦は、出雲建子命(いずもたけこ)と言う出雲族だと書かれているのです。
伊勢津彦という名なのに、出雲の人だったのはちょっと意外ではないでしょうか^^;
それと、この伊勢津彦は、戦いに破れて信濃に逃げていますが・・・
出雲族で信濃に逃れた神と聞いて、誰かを思い浮かびませんか?
すなわち、、、
大国主命の国譲り神話での、タケミナカタとそっくりだと思いませんか?
伊勢津彦と建御名方神(タケミナカタノカミ)を比較するために、
出雲の大国主神の国譲りの場面の概要を、下記に示します。
<大国主神の国譲りの場面>
建御雷神が大国主神に葦原中国の国譲りを迫ると、
大国主神は御子神である事代主神が答えると言った。事代主神が承諾すると、大国主神は次は建御名方神が答えると言った。
建御名方神は建御雷神に力くらべを申し出、
建御雷神の手を掴むとその手が氷や剣に変化した。※この建御名方神と建御雷神との力比べが、神話世界での相撲発祥の出来事だとされています
これを恐れて逃げ出し、科野国の州羽(すわ)の海(諏訪湖)まで追いつめられた。
建御雷神が建御名方神を殺そうとしたとき、
建御名方神は「もうこの地から出ないから殺さないでくれ」と言い、服従した。
いかがでしょうか。
「出雲族」で「諏訪に逃れている事」などは、伊勢津彦と全く同じです。
このように、伊勢津彦とタケミナカタは、類似点が多いのです。
こう考えると、伊勢津彦=タケミナカタではないか?と思われるのですが、
今度は、伊勢津彦の血筋の面から、それを検証して見ましょう。
伊勢津彦をさらに調べていくと、、、
播磨国風土記の【伊勢野】の項には、こうも書いています。
<播磨国 風土記 伊勢野>
伊勢野(現在の姫路市林田町上伊勢付近)と名付けるわけは、
この野に人家ができるようになると、そのたびに安らかに暮らすことができなくなる。そこで衣縫猪手(きぬぬいのいて)・漢人刀良(あやひとのとら)らの祖は、
ここに住むことにした時、社を山麗に立ててうやまい祭った。山の峰においでになる神は、伊和大神のみ子の伊勢都比古命・伊勢都比売命である。
これから以後は家々は静かに安らぎ、ついに里ができるようになった。
そこで伊勢とよぶ。
ここでも、伊勢の地名が見られます。
ただし、この姫路にある伊勢は、渡来人による後世の付会と思われるので、
伊勢神宮の起源に直接結びつくようなストーリーでは無いと思います。
しかしながら、この地に伊勢都比古命を祀ったと言うのは、非常に重視すべき事柄です。
すなわち、瀬戸内周辺が伊勢津彦の勢力圏だったからこそ、伊勢津彦を祀ったのではないでしょうか。
また、ここで初めて伊勢津彦(伊勢都比古命)の素性が明らかになります。
すなわち、伊和大神が伊勢津彦の父に当たるのですが、
実は、伊和大神は、大汝命(大己貴神)=大国主命の事だとされています。
▼伊和神社(伊和坐大名持魂神社) (兵庫県宍粟市一宮町須行名407)
成務天皇14年、または欽明天皇25年(564年?)の創祀と伝わる。
『延喜式神名帳』には、「伊和坐大名持魂神社」(伊和に鎮座する大己貴神の社)とあり、
伊和神=大己貴神(大汝命)=大国主命であることが分かります。
したがって、伊勢津彦(伊勢都比古命)は大国主命の子です。
一方、記紀を読むかぎり、タケミナカタも大国主命の子です。
「出雲族」で「信濃に逃れ」、さらに、同じ「大国主命の子」・・・
このような一致を考えれば、、、
伊勢津彦と建御名方神(タケミナカタ)は全くの同一人物である!
・・・と結論付けて良いのではないでしょうか?
さて、伊勢津彦=建御名方神(タケミナカタ)と考えて、
先日の「銅鐸とイザナギ」の記事の内容を思い出して見て下さい。
阿波地方には「名方郡」という、出雲系の建御名方神の名を冠する地名が残っています。
さらに、徳島県名西郡石井町浦庄諏訪には、
多祁御奈刀弥(たけみなとみ)神社があり、祭神は、建御名方命が祀られています。
このように名方郡は、建御名方神と縁の深い土地だと言う事が良く分かります。
なお、社伝によると、信濃諏訪郡の南方刀美神社(諏訪大社)は、多祁御奈刀弥神社から、宝亀10年(779)から移遷されたものであるらしいです。
(つまり、諏訪大社の起源までが、この阿波の多祁御奈刀弥神社にあります)
こう考えると、阿波の国は、元々、建御名方神(=伊勢津彦)が治めた土地だった!
・・・と言うのが、よく分かるのではないでしょうか。
なお、以前に述べた「聞く銅鐸」⇒「見る銅鐸」への変遷については、
建御名方神が瀬戸内周辺から追いやられ東に移った結果かもしれません。
また、そんな名方郡のすぐ近くにあるのが、例の阿波の伊勢神社です。
▼伊勢神社(徳島県阿波市阿波町伊勢80)
▼伊勢神社
▼伊勢神社の古い鳥居
【上記の写真2点は、「POPPO NEWS ありゃっ! お伊勢さん?!」より引用】
恐らく、この伊勢神社で祭られていたのは、
国生み神話で、阿波の国の名に見られた大宜都比売だっただろうと思います。
現在、伊勢神宮で豊受大神が、食糧神として祀られていますが、
管理人は、そのルーツは、阿波の大宜都比売にまで遡ることが出来ると考えます。
※この「大宜都比売=豊受大神」であることの証明は、後日、別の記事で述べたいと思います
建御名方神(タケミナカタ)は、「古代の鉄と神々」によると、建南方でもあるそうです。
南方の神は、陰陽五行で言えば火の神であり、火の神は五行相剋で考えれば、
「火は金を溶かし・・・」と言うように、製鉄に欠かせない神です。
この製鉄神である建南方が、阿波に拠点を置いていたからこそ、
(鉄の生成を促す祭祀に用いる)銅鐸も阿波に多く出土していた訳です。
さらに、建南方=火の神ですが、
南の方角は、太陽の火=日が最も勢いを増す方角でもあります。
※神棚が東や南に面するようにするのは、太陽神信仰の現れです
そういう意味で、南に太陽神を祀るのは、ごく自然な考えであり、
建御名方神を祀る勢力は、(星神スサノオを祖とする出雲勢力の中はちょっと特殊な)
太陽神の信仰を持っていた可能性もあると思います。
なお、出雲から見ると、阿波の地は太陽(朝日)の出る方角であり、
建御名方神がこの阿波の地を治めたのも、太陽神信仰の理にかなっています。
以上の事から、建御名方神(=伊勢津彦)に基づく伊勢が阿波の地にあるのは、
ごく自然な摂理と考えますが、あなたはどう思われますでしょうか?
PS.
上記の通り考えると、、、
「伊勢国 風土記逸文の伊勢の国号」にあるストーリーは、
建御名方神(=伊勢津彦)の拠点のあった"阿波の伊勢"で起きた出来事だと類推されます。
現在の三重の伊勢は、後世に、「伊勢」が他から移された結果だと考えた方が良いと思います。
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