秦の方士 徐福伝説と物部氏の正体(後編):不況対策!個人でも有効な方法



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2013年4月 2日


秦の方士 徐福伝説と物部氏の正体(後編)

前回、前々回と徐福の出自からや徐福が日本に辿り着いたルートなどを紹介してきました。

そして、徐福の上陸地を探る上で、具体的な解答を示したのが神道組織「八咫烏」であり、
彼らが述べた要旨は、以下の3点です。


  • ①徐福の1回目の上陸地は、若狭湾である
  • ②徐福の2回目の上陸地は、北九州の西側である
  • ③物部氏は、徐福とともに来ている

上記内容は、「失われた徐福のユダヤ人「物部氏」の謎」より


それで、前回は、徐福の最初の上陸地である伊根町新井崎について解説しました。


今回は、引き続き、徐福の二度目の上陸地、「②北九州の西側である」について探ります。
また、同時に、神武天皇ストーリーに隠れている日本の真実の歴史を探っていきたいと思います。


徐福の二度目の渡来と北九州に残る長江流域の文化

さて、ここで思い出して貰いたいのが、八咫烏が述べた二つ目の言葉です。
八咫烏は、徐福の二度目の上陸地を、「②北九州の西側である」と述べています。


北九州の西側と言えば、佐賀県が鹿児島辺りになりますが、、、

前回で述べたように、稲作の伝播ルートから察すると、
佐賀県西部辺りが徐福の二度目の上陸地点と考えて良いのではないかと思います。
(詳しい上陸伝承は「徐福の佐賀県の上陸伝承」をご覧下さい)


そして、この佐賀県で、弥生時代の有名な遺跡に、吉野ヶ里遺跡があります。

実は、この吉野ヶ里遺跡は、徐福伝承のある金立神社から東へ8キロ程の場所で、
ほとんど、同一圏内と言っても良いもので、(直接的な物証はないものの)
吉野ヶ里遺跡にも徐福が関わっている可能性は大いにあります。


この吉野ヶ里遺跡には、色々特徴がありますが、
環濠集落や高床式倉庫などは、とても有名だと思います。

高床式倉庫などは、お米の貯蔵庫だと考えられていますし、
実際に、吉野ヶ里遺跡からは、ジャポニカ米の炭化米も発見されています。
※ただし、吉野ヶ里遺跡からは、水田跡が見つかっていないため、熱帯ジャポニカと思われる

そして、中国の研究者によると、吉野ヶ里遺跡に見られる
環濠集落や高床式倉庫などは中国の江南地方特有のものなのだそうです。



さらに、北九州地方には、その特有の風習として、甕棺墓が多く見つかりますが、
この甕棺の風習も、元々は、中国の戦国時代の頃まで長江河口流域に残っていたものです。


また、九州の甕棺墓の研究をしている藤尾慎一郎氏によりますと、この甕棺墓は、
(一部例外を除き)ほとんどが、九州の西半、かつ、北部九州地城にのみ見られるそうです。

また、氏によると、この甕棺墓の風習の発生時期を、弥生時代早期としており、
それまでは、甕棺墓の風習は見られなかったようです。


以上の事から察すると、北九州地域に縄文晩期~弥生早期に、
それまでと違った風習を持つ民族が渡来した事は、明らかです。

民族の渡来時期や八咫烏の指摘、さらにイネの伝播や長江方面との文化の類似などから
それは、紀元前3世紀後半頃に中国の越(江南地域)からやってきた、
徐福の連れてきた集団(部民)によるところが大きいのではないでしょうか?


特に、二度目の徐福渡来時は、三千人規模とかなりの大人数でした。


良家の童男童女三千人と五穀(中国の五穀は麻・黍・稷・麦・豆)の種子と
さまざまな分野の技術者を徐市に託して旅立たせた。

長旅の航海を終えて、まずはこの地で日本国内での拠点を築いたと考えれば理にかないます。


と言う事で、徐福の二度目の渡来は、
北九州の佐賀県西部辺りが、最も可能性が高いように思われます。


その後の徐福のルートは?

さて、ここからは、その後の徐福の足取りを考えて見たいと思います。

まず、一番最初に考えないといけないのは、、、
そのまま、徐福は、北九州で定住したかどうか?」という問題です。


この問題について、最初から秦の始皇帝を騙すつもりであれば、
北九州にそのまま住みつくのも考えられますが・・・

一度目の航海で、何も成果も挙げられ無かったにも関わらず帰国した徐福です。
その徐福の性格を考えると、始皇帝を騙すつもりも無く、
さらに、不老不死の薬を求めて、さらに東に向かった可能性が高いと思います。


実は、国内で徐福伝承を見ると、最初の渡航地である京都府伊根町を除いて、
ほとんどが太平洋側に伝承が偏ってみるのが見られます。

また、徐福の墓も、九州にはそれらくきものがなく、
むしろ、徐福の墓の伝承は、和歌山県新宮市や山梨県富士吉田市辺りにあります。

以上の事を考慮すると、北九州はあくまで徐福船団の日本の拠点の一つであって、
徐福自体は、そのまま太平洋側から船で東進したのではないかと考えられます。


以下からは、徐福伝承から推測される東進ルートを挙げていきます。
佐賀県を出た徐福は、まずは鹿児島県いちき串木野市に寄港します。

冠岳連峰の西岳において、徐福が自らの冠をとって、
封禅(ほうぜん)の儀式を行ったという言い伝えがあるようです。

▼冠岳連峰の西岳(鹿児島県いちき串木野市)


その後、鹿児島県の坊津町などを通って、九州の南東側の日向の国に出ます。
途中寄港した延岡市には、徐福が乗ってきた船をつないだ岩というのがあるようです。

▼日向灘


徐福一行は、さらに紀伊の国に向かって東進します。
高知県土佐沖で暴風雨にあったらしく、徐福とともに日本に来ていた
もう一人の秦の重臣"張郎"なる人物が、洲崎浦に漂着しています。

ここで、張郎は地元の人に聞いて、仙薬探しに
虚空蔵山に登ったという伝説が残っているようです。

▼虚空蔵山(高知県土佐市・須崎市・佐川町)


しかし、結局、仙薬は見つからず、張郎は仙薬探求失敗を報告するため、
そのままこの地を後にしたようです。

しかし、徐福は、そのまま三重県の熊野に向かったのだとか。


熊野に向かった徐福は、熊野川の河口近くの蓬莱山に上陸。

徐福はこの地で天台烏薬という木を発見し
それが不老不死の薬だとこの地では言われているようです。

また、富士宮古代文献「宮下文書」によると、紀伊熊野に迷い着いた徐福は、
しばらくこの熊野の地(波田須辺りか?)に留まった、、、ということも書かれています。

▼徐福公園(和歌山県新宮市新宮7178番地)


以後のルートについては、富士宮古文献「宮下文書」によりますと・・・
不老不死伝説がある蓬莱山、富士山に徐福一行は向かっているようです。

▼蓬莱山、不二の山である富士山


現代語訳 神皇紀―徐福が記録した日本の古代"富士古文書」より

(第7代孝霊天皇の)七十四年甲申年(紀元前217年)九月、秦国徐福が高天原に来た。
これより前、徐福は秦始皇帝を欺き、大船八十五艘を造り、金銀銅鉄、五穀衣服、器具
その他諸々の品々を用意して、老若男女五百余人を従え、不二山を目標として東海に来た。

本島の南海で不二山を見失い、木日国熊野山に惑っていたが、
ある日再び不二山を見つけ、今、漸く高天原に上り来たものであった。


(管理人注)
ホツマツタエ」によると、古代高天原は一か所だけでなく複数あったとされています。
(日高見(宮城多賀城)、ハラミ山(現富士山)、淡宮(近江多賀大社)など)
また、中国出発時には、老若男女三千人だったのが、ここでは五百人まで減っており、
ここまで来る途中に、2500名が、何処かに消えていることに注意。



そして、その後、徐福は富士山北麓で徐福は七男三女をもうけ、
その地で、一生を終えたようです。(下記は徐福の子孫)

  • 長男:福永⇒福岡と改名、父の跡を継ぐ
  • 次男:福萬⇒福島と改名、紀伊熊野に郎党50人を連れて移住
  • 三男:徐仙⇒福山と改名
  • 四男:福寿⇒福田と改名
  • 五男:福畑
  • 六男:福海
  • 七男:福住

七人の息子達は7箇所に分かれて子孫を増やした。
その多くは秦を姓とし、又、氏に福の一字を付けた。


(管理人注)
徐福伝説に秦氏の影がついて回るのは、後の子孫が、秦を姓としたためかもしれません。
したがって、厳密に言えば、後世の弓月君(融通王)を始祖とする秦氏一族とは、
分けて考えるべきではないかと思います。(徐福の子孫は、物部氏系の秦氏と言えます)


取りあえず、以上のように、徐福の辿ったルートをざっと説明しました。

あくまで、徐福伝説のある土地を結んでいっただけですが、こうして見ると、
鹿児島から宮崎、、、そして熊野に至るルートは何処かで見たような気がしませんか。。。

▼徐福が辿ったルート(推定図)


そう。。。
このルートは、かなり神武天皇の東征のルートに近いかもしれません。

しかも、徐福の本隊は、大和から見て東側の富士山周辺に移り住んでおり、
さらに、その一部に、紀伊熊野に移住した集団が居ることにも気付きます。
(神武天皇のストーリーでも、熊野で高倉下や八咫烏の助力がありましたね)


そう考えると、徐福の九州ルートの船団が、神武天皇のモデルだったのか?と考えたくなります。

・・・

・・・

しかし、残念ながら、、、
徐福自体は、神武天皇ではありません。

神武が徐福なのであれば、徐福に征服者としての痕跡が残るはずです。
しかし、それが無いのは、神武天皇と徐福とは別の存在であるという事です

ただし!
先ほどちらっと述べましたが、文献によると、徐福が富士山まで来た時は、わずか500人です。
一方、中国の史記では、約3000人の童男童女と技術者が出航した事が書かれています。

その差は2500人とかなり大きく、もしかすると、その大部分が、
最初の上陸地であった北九州に残ったままだったのではないでしょうか?


そして、その集団が、稲作文化を九州に定着させ、
九州で勢力を蓄えた後、稲作文化の東進とともに、大和方面まで勢力を伸ばしてきた


・・・とは考えられないでしょうか?


実は、そんな仮説も十分あり得る事が、最近の調査では分かって来ています。


証拠①:稲作の東方への伝播と遠賀川式土器

よくよく考えて見れば、稲作は、東から伝播しています。


この稲作の東進の指標に、
「遠賀川式土器(おんががわしきどき)」がという土器あります。

福岡県遠賀川下流の川床で多量の弥生式土器が
採集されたことから、その名前が付けられました。

遠賀川式土器は、下記のように、九州から西日本に広く展開していることが既に分かっています。


▼遠賀川式土器の展開

【上記は、佐々木高明著「日本史誕生 集英社版 日本の歴史 (1) (日本の歴史)」より引用】


この遠賀川式土器は、初期の水田稲作の西から東への伝播の指標にもなっており、
西日本の弥生前期土器の総称としてつかわれるようになっています。

古代において、文化の流れは人の流れですから、
九州から東方面へと人が流れて言っているのが分かります。


証拠②:北九州と大和の地名の類似

実際に、この北九州地方⇒大和地方への移動は、地名にも現れています。

安本美典氏は、著書「卑弥呼と邪馬台国」において、
下記のサイトの図のように、福岡県朝倉市(旧朝倉郡夜須町)付近の地名が、
大和付近の地名に一致していることを発見しています。


<参考図:大和と筑紫の地名の比較>


筑前高田⇒大和高田、笠置山⇒笠置山、御笠山⇒三笠山、小田⇒織田、
平群郷⇒平群郡、三輪⇒三輪、雲梯⇒雲梯、朝倉⇒朝倉(桜井)、
三井⇒三井、浮羽町⇒音羽山、鳥屋山⇒鳥見山、鷹取山⇒高取山などなど・・・

興味深いのは、"雲梯"と言った滅多に見られない地名が双方で見られることや、
九州の地名と配置が、そのまま似たような形で、大和に移し替えられていることです。

この事実は、確実に、北九州の人々が大和に入植していることを示唆しています。


さらにもう少し深く言えば、九州の遠賀川周辺の残した地名には、
物部氏の部民としての地名が多く残っており、それは畿内においても見られますので、
九州の物部氏の部民が畿内に大量に移動してきたことを、如実に示す結果となっています。


物部氏というのは、「物作りの部民」の総称の意味もあります。
要するに、モノづくりの専門技術者の集団と言っても良いでしょう。

一方、徐福が2度目の航海で連れてきた人々は、どうだったでしょうか?


中国の史記では、「約3000人の童男童女と技術者が出航した」
・・・としっかり書かれていますよね。

以上のように、九州から東に向けて文化が伝わったのは、
こうした"徐福が九州に残した物部氏"の影響が強いと考えられる訳です。

こうして、徐福が残した二つの集団が、原始の日本の国を形成していくことになる訳です。


※おことわり
ただし、上記のような考察を続けていくと、
神武天皇は、徐福が九州に残した部隊の一族ではないか?
という可能性は、いやがおうにも高まってきます。

しかしながら、この仮説については、管理人も現在考察中であり、
さらに深く検討すると、神武天皇の東征や邪馬台国の論議までをも考慮せざるを得ず、
今現在の徐福という人物の話の本節から大きく外れてしまいます^^;

なので、読者の方には申し訳ないのですが、
徐福が九州に残した集団が、その後の日本の物部氏の基礎になっている所までを示し、
それ以上の事については、現段階では触れずに、今後の課題にさせて頂きます。

なお、籠神社の海部宮司は、「物部氏と海部氏とは格が違う」と述べていますが、
これは、もともとの「物部氏=物づくりの部民」なのに対し、
「海部氏=古代の王家の祭祀一族」ということに由来しているようです。


結局、徐福とは何者だったのか?

さて、ここまで色々と徐福の謎を考察した訳ですが・・・
しかしながら当シリーズ最初に示した謎には、まだ何も解答していません。


すなわち、、

なぜ秦の始皇帝は、最初の渡航で何の成果をも挙げられなかった徐福に
一切の罰をも与えることなく、再び巨費を費やしてまで、二度目の渡航を許可したのか?

また、なぜ、始皇帝は、そこまで徐福を信用できたのか?


・・・という問題です。


この問題については、残念ながら、
今となっては有る程度、推測でしか答える事が出来ないのですが・・・

徐福が、元々、秦の始皇帝の同族であった!」のが理由ではないかと考えられます。


中国の研究者によると、徐福の姓として、
元々はという名字を持っていた事が近年分かってきたそうで、
同じ名字を持つ秦の始皇帝は徐福と同族の可能性が高いようです。

秦の始皇帝が、初回の航海時の失敗にも徐福を咎めなかったのは、
こうした同族意識が働いていたのかもしれません。


あと、以前述べた通り、秦の始皇帝は、「呂不偉」を実質の父親(?)とした、
ユダヤ人の可能性がありましたが、徐福自体はどうなのでしょうか?

こちらの徐福の血統面でのルーツは、なかなか探る事は出来ないのですが、
しかしながら、徐福の思想面においては、大いに類推する事は出来ます。


まず、徐福の名前はジョフクですが、
エジプト名で言えばジョセル、英語ではジョセフ、ヘブライ語ではヨセフです。

もし、徐福の名前が、ヤコブの息子であるヨセフを意識して名付けられた物だとすれば、
徐福自身が、ユダヤ教徒である可能性は非常に高いと思われます。


まだ他にも論拠はあります。
徐福が、最初に渡来したのは、与謝郡です。

ここで、もし、徐福がユダヤ教徒だったら・・・という思考で考えて見て下さい。


もし、ユダヤ教徒ならば、きっと、新しい入植する新天地を、
聖書のカナンの地に当てはめることになるのではないでしょうか。

聖書ではイスラエル民族のカナン入植を導いた人と言えば、、、
モーゼの跡を引き継いだヨシュアです。

このヨシュアの地名を、入植地に名付けるのは、
ユダヤ教徒的な立場から考えれば、何らおかしい事ではありません。

翻って、この与謝郡(古名では與謝・吉佐・匏など)の地名に注目してみると、、、
与謝=ヨシュアであり、まさに、旧約聖書の名前と同じです。


また、徐福が連れてきた物部氏も、後世に垂仁天皇の時代に物部氏の姓を賜っていますが、
平御幸氏の説によると、「物部=牛を拝むこと勿れ」の意味も含まれているようです。

牛を拝む事勿れは、まさに、金の仔牛像を想像させる名前と言えます。



上記に述べた事は、言って見れば単なる文字のごろ合わせに過ぎませんが・・・
そこに物証が伴って来た場合は、大きな意味を持ちます。

思いだして下さい。徐福一団の中心氏族たる海部氏が崇拝する籠神社。
この籠神社の奥の院「真名井神社」の石碑には、以前は六芒星(カゴメ紋)が刻んでありました。

▼籠神社の奥の院「真名井神社」の旧石碑


この六芒星マークこそが、海部氏の持つ、籠神社の裏社紋であり
イスラエルと同じカゴメ紋であることに、非常に大きな意味があると思います。


以上の事から、管理人は、徐福が率いた物部氏の一族は、
ユダヤ教徒が中心だったのではないかと考えます。

また、ユダヤ教徒が多い=その中に、ユダヤ人が含まれていた可能性が高い!
・・・と言えると思います。


以上が、徐福と物部氏の正体についての謎解きです。

少し、不完全燃焼な記事かもしれませんが、書ききれなかった部分は、
今後、随時追加で検討していこうと思います^^;



最後に、ちらっと述べると、飛鳥氏の下記の著書によると、
(物部氏の事を指しているかどうかは分かりませんが)
日本の神道祭祀のTOPである八咫烏は、その公式見解として、
日本人にユダヤの血が入っていることを認めているようです。

失われた徐福のユダヤ人「物部氏」の謎

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