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2013年4月24日
少し間が空きましたが、金太郎(坂田金時)の謎について続きを述べたいと思います^^
シリーズ前回、前々回と、金太郎伝説の真実を探ってきました。
その結果、浮かび上がってきた真の金太郎は、下毛野公時(しもつけぬきんとき)という、
京都府長岡京市調子(旧山城国乙訓郡調子村)出身の相撲使であることが分かりました。
※相撲使・・・力士をスカウトする役といわれる
しかし、この下毛野公時(しもつけのきんとき)は、平安末期の時点において、
既に、「下毛野公時が坂田金時(坂田公時)に変わっている」のが見られます。
今昔物語集 巻二十八第二 (1120年代以降の成立)
今は昔、摂津守源頼光朝臣の郎等に、平貞道・平季武・坂田公時という三人の兵があった。
古今著聞集 巻第九 武勇十二 (1254年頃に一旦成立し、後年増補)
《源頼光、鬼同丸を誅する事》
源頼光朝臣、寒夜に物へありきて帰りけるに、源頼信の家近くよりたれば、
坂田金時を使にて「只今こそ罷り過ぎ侍れ。この寒さこそはしたなけれ。美酒侍りや」
といひやりたりければ・・・
なぜ、下毛野公時の死後から、わずか百年余りで、
下毛野公時から坂田金時(坂田公時)へと変わっていったのか?
今回は、その謎を解いていきたいと思います^^
鍵を握るのは、、、"もう一つの金太郎伝説"です。
金太郎伝説は、日本各地にありますが、
滋賀県長浜市西黒田地区に残る金太郎伝説もその一つです。
まずは、そのストーリーをご覧ください。
<西黒田の金太郎伝説>
金太郎は、当時この西黒田の地に勢力のあった息長氏の一族として、
天暦9(955)年に近江国坂田郡布勢郷(現在の長浜市布施)に生まれました。
たいへん大きな赤ん坊でした。
その後、小一条の「うばがふところ」という場所で乳母によって育てられた金太郎は、
西黒田の山里を駆け回るいきいきとした少年となりました。▼番所(ばんふところ)(長浜市小一条町)
金太郎は、舟崎の鯉ヶ池で鯉にのったり、
常喜の熊岡や足柄山で熊と相撲を取ったりして遊ぶ、元気で明るい子どもでした。▼熊岡神社(滋賀県長浜市常喜町)
また、本庄の足柄神社の奉納相撲にも出場し、見事な力を発揮していました。
そして金太郎は少年時代、遊ぶだけでなく、付近の菅原道真ゆかりの
名超寺、富施寺などで、学問にも励んでいました。
まさに文武両道の優等生だったのです。
▼芦柄神社(滋賀県長浜市)
※明治期以前は足柄神社だった。西暦893年に菅原道真によって創建
青年となった金太郎は、地元の鍛冶屋で働き始めます。
当時この地は、製鉄業が盛んだったのです。金太郎は、一生懸命働き、その名声は日に日に高まっていきました。
そして、金太郎自身は、息長家の一族として、多くの苦しんでいる人々のため、
役に立つ仕事がしたいと思うようになっていたのです。
それから数年が過ぎ、20歳となった金太郎に転機が訪れます。
天延4(976)年、旧暦3月21日、上総守の任期を終え、黒田海道を上京中の
源頼光が足柄山にさしかかったとき、頼光はこの地にただならぬ気配を感じ、
誰か素晴らしい人傑がいるに違いないと思いました。そして、かねてから頼光は伊吹山の山賊を退治するため、
このあたりの地理に明るい若武者を家来にしたいと思っていたこともあり、
家来の渡辺綱に人材を捜させました。そのとき目にとまったのが、金太郎だったのです。▼芦柄神社にある土俵※神社の背後には"足柄山"がそびえる
頼光は、金太郎の非凡なる形相を認め、金太郎に名前などを尋ねました。
金太郎は「息長の一族で、名前は金太郎。」と答えました。頼光はさすがにと思い、家来にならないかと言いました。
上京後、金太郎は名を坂田金時と改め、頼光のもと様々な手柄を立てました。
金太郎もかねてから、世の中の人々のために役立つ仕事をしたいと思っていた事もあって、
頼光の家来となることを決心しました。そして、ついに正暦5(994)年、伊吹山の山賊を退治することになります。
金太郎は、地理に明るいこともあって、一番乗りの大手柄を立て、地元に凱旋しました。
地元の人々は、さすが金太郎だと口々に言いました。そうして、金太郎は、渡辺綱、卜部季武、碓井貞光とともに、
頼光の四天王と称されるまでになったのです。
※便宜上、上記の金太郎のストーリーを『西黒田の金太郎伝説』と呼びます
まず、上記のストーリーで断っておかないといけませんが・・・
上記の西黒田の金太郎出生譚については、明らかに後世の後付けだと考えられます。
金太郎と面識のあった藤原道長が『御堂関白記』で下毛野公時と書いている以上、
金太郎の生誕地は、京都府長岡京市調子であるのは動かしようがない事実です。
しかしながら、、、
西黒田の金太郎伝説は、『下毛野公時が、坂田金時に変わった』鍵を握っています。
なぜなら、この西黒田地区は、元々、近江国坂田郡だからです。
仮に、下毛野公時が、この近江坂田の地と関わりが深い人物だったならば・・・
平安末期において、近江坂田の地名を取って『坂田の公時』と呼ばれ、
それが、いつしか『坂田公時(坂田金時)』に定着したとは考えられないでしょうか?
事実、金太郎のストーリーの随所に、近江坂田の影響を見出す事が出来るのです!
西黒田の金太郎伝説にある通り、この近江坂田は、神功皇后や継体天皇妃 広姫など、
天皇の外戚として勢力を誇った、古代豪族『息長氏』の拠点です。
それで、実は、金太郎のトレードマークにマサカリがありますが、
このマサカリは、この息長氏と非常に関係が深いのです。
▼マサカリ担いだ金太郎
息長氏を代表する人物として、神功皇后が有名ですが、、、
実は、神功皇后が使った武器は、鉞(マサカリ)です。
▼神功皇后の剣入鉞(マサカリ)(山津照神社蔵)
日本書紀にも、神功皇后がマサカリを使った事がしっかり書かれています。
<日本書紀・摂政前紀(仲哀九年九月条)>
時に皇后、親ら斧鉞を執りて、三軍に令して曰はく・・・
それ以外にも、記紀では、息長氏と縁の深い天皇に継体天皇が居ますが、
継体天皇は、磐井の乱の鎮圧させる際に物部麁鹿火に斧鉞(マサカリ)を授けています。
<日本書妃 継体天皇条(二十一年)>
天皇(※継体天皇)、親ら斧鉞を操りて、
大連(※物部麁鹿火)に授けて日はく、
「長門より東をば朕制らむ。筑紫より西をば汝制れ。専賞罰を行へ。
頻に奏すことに勿煩ひそ」とのたまふ。二十二年の冬十一月の甲寅の朔甲子に、
大将軍物部大連麁鹿火、親ら賊の師磐井と、筑紫の御井郡に交戦ふ。
このように、息長氏とマサカリは非常に強い関係性を持っています。
※斧鉞は古代中国の軍権の象徴で、軍を指揮する人物に与えられていました
また、古代において、斧鉞を作るためには高度な製鉄技術が求められたため、
斧鉞は一部の限られた地域でしか生産されませんでした。
事実、(幾つかの例外を除き)古墳に斧鉞が副葬された例はほとんど見られません。
ただし、その例外地域の一つが、伊吹山周辺の地域(伊吹ねう地帯)なんです。
例えば、近江坂田の近くに位置する岐阜県大垣市の矢道長塚古墳は、
鉄斧がまとまって出土した日本でも、非常に珍しい古墳の一つです。
他にも、伊吹山周辺には、金糞岳や金生山といった製鉄地名があり、
美濃一宮の南宮大社の祭神も、「金山彦命」という製鉄神です。
▼南宮大社
このように地名や祭神から伊吹山周辺が古代製鉄が盛んだったことが伺えるとともに、
古代において坂田が鉞(マサカリ)とも非常に縁の深い土地柄だった事が分かります。
だからこそ、坂田金時となった金太郎は、マサカリをトレードマークにしている訳です。
ついでに、金太郎の"金と書かれた赤い前掛け"も、
火の粉が飛ぶ熱い製鉄のタタラ場での作業着が、イメージされた結果だとも考えられます。
<補足>
鉞などの玉器は、古代中国の長江下流域の石峡遺址(せっきょういせき)でも見られ、
古代日本で鉞を重要視するのは、古代中国の越の文化が影響している証拠です。
このように、鉞の特殊性や製鉄遺跡、古代の天皇家と息長氏の影響などを考慮していくと、
『下毛野公時が、坂田金時に変わった』のは、近江坂田が関係している可能性が非常に高いのです。
最後に、『下毛野公時が、坂田金時に変わったきっかけ』について考えたいと思いますが、
管理人は、相撲がきっかけになっている可能性が高いと考えます。
御堂関白記において、下毛野公時は「力士をスカウトする相撲使」の仕事をしていましたが、
この平安中期の時代、いったい相撲は何処で行なわれていたのでしょうか?
▼木造相撲人形 御上神社蔵(鎌倉時代)
まぁ、一つは宮廷の行事として行われていたと思われますが、
それ以外に、近江坂田でも大々的に相撲が執り行われていた可能性が高いのです。
それは、色々な所の古記録や地名などから判断できます。
、
例えば、(下毛野公時の時代から200年ほど時代は下りますが)
鎌倉初期に後鳥羽上皇が、近江坂田の「日撫神社」の地で、
角力相撲を見学したことが記録にきっちり残っています。
▼日撫神社 (滋賀県米原市顔戸)
▼日撫神社の土俵
▼日撫神社のご由緒書き
後鳥羽上皇はしばしば参詣され、応神天皇を祀り給い、
その時村人等による角力(※相撲のこと)を閲覧され給う。
この角力が今日も伝承され、毎年奉納されている。
さらに、後鳥羽上皇の名前を冠した鳥羽上町を中心に、
"相撲"の名のつく地名が、この辺りには幾つか残っています。
<北近江に残る相撲(すまひ)の付く地名と由来>
※古来は相撲は争(すま)ふ事から、"すまひ"と呼ばれた長浜市相撲庭(すまいにわ)町(旧浅井町相撲庭)
⇒坂田郡誌によると、古代、相撲の勝者の景品を作った場所であるらしい。
長浜市相撲(すまい)町
⇒坂田郡誌によると、古来、朝廷の相撲の儀式の式田があったことから名付けられた。
▼相撲神社(室町時代には相撲宮と呼ばれた)(長浜市相撲町)
このように、後鳥羽上皇の前で、(今風に言えば)天覧相撲が行われた記録が残り、
さらに、相撲の景品造りの部民や式田までが用意されているのは、
この地が、相撲と大きな関わりがあったことを示す明確な証拠です。
※上記以外に、奈良時代から、近江坂田が相撲の由緒地に比定できる傍証もあるのですが、その詳しい事は、今後の当サイトの考察の中で披露することにして、今は秘密にしておきます^^;
以上の通り、近江坂田には、現代の金太郎のイメージともなる条件が全て揃っています。
- 鉞(マサカリ)の存在と古代の製鉄産地
- 相撲の草分け的な土地柄
- 坂田金時の元となる"坂田"の地名
ここからは、管理人の仮説になりますが・・・
元々、京で相撲使だった下毛野公時は、相撲使の仕事を通じて、
ここ坂田の地に、足繁く来ていたのではないかと思います。
そしていつの頃からか、"坂田の公時"と呼ばれるようになり、
それが、坂田金時として、定着していったのではないでしょうか。
管理人は、こうした経緯で、現代の金太郎のイメージが形成されたと推測しますが、
あなたは、どう思われますか?
余談:酒呑童子と伊吹童子
なお、佐竹昭広氏の著書「酒呑童子異聞」によると、、、
後の金太郎の物語である酒呑童子の話は「大江山」を舞台とする系統以外に、
ストーリーは全く同じで、舞台を「伊吹山」とする系統も存在するようです。また、酒呑童子の若い頃は「伊吹童子」と呼ばれたという話もあります。
(これは大江山の酒呑童子の話が元々あった所に、後に出生譚が付加されたものらしい)金太郎が退治する酒呑童子の話にまで、伊吹山が影響しているのは、
この北近江地方の伝承が、世間に広く伝播した結果なのかもしれません。
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