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2012年5月13日
前回の続きです。
前回をご覧になってない方は、下記をどうぞ。
▼藤原京に隠された謎① 耳成山(みみなしやま)の周囲に何がある?
藤原京周辺にある春日神社は、をラインで結ぶとどうなるか?
それを図示したのが、下記です。
耳成山を頭部として、剣と楯を持った、巨人が現れます。
これは、まさに冬の大星座、「オリオン座」のように見えます。
さらに良く見ると、、、
藤原京の人型はオリオン座とは、盾と剣(こん棒)の持ち方が逆です。
そう、、、
藤原京の人型は、裏向きに作られているのです。
【耳無し山の麓には、口無しがあるだけでなく、目隠し川まである】
耳が無い、口が無い、目隠しをしている、、、
要するに、この藤原京の人型は、逆向きであると言う事を、地名で表している訳です。
つまり、藤原京の人型は、うつ伏せの状態の絵な訳です。
だからこそ、オリオン座の星座とはまるっきり逆の構造な訳です。
そして、なぜ、うつ伏せなのかと言うと、、、
恐らくそれは、単なる呪術ではなく、、、
「呪いの呪術」だったからこそ、「裏向き」だったのではないかと管理人は推測します。
この地上絵を書き施したのは、物部氏のトップであった石上麻呂です。
▼石上麻呂(いそのかみのまろ)(640~717年)
彼と、彼の死後、その意思を受け継いだ、物部氏系の子孫によって、
春日神社は建立されていきました。
藤原氏との政争に負けて復権を期した、物部氏は、藤原氏を追い落とすそうと画策し、
この春日神社によって、壮大な呪いの呪術を施した訳です!
・・・
・・・
その結果、どうなったのか?
今回は、その後の、歴史に追ってみたいと思います^^
物部一族によって藤原京周辺には、藤原氏を追い落とすための、壮大な呪術が施されました。
奇妙なことに、春日神社は、平城京遷都(710年)後に作られたものが多く、
石上麻呂の生前から建てられ、彼の死後(717年以降)も続々と建立されていきます。
藤原京が廃都にされた後も、なおも神社が建てられて行く様は、
非常に奇妙な光景だったはずです。
そして、それによる災いは、石上麻呂の死(717年)から17年後、、、
西暦734年頃の聖武天皇の時代から顕著に見られるようになるのです。。。
記録によれば、聖武天皇の時代(西暦734年)の夏、近畿地方に大地震が発生しています。
その年は、2回、大きな地震があったとされています。
734年5月14日・・・天平地震(畿内七道地震) - M 7、死者多数。生駒断層直下型
生駒断層の直下で起こった地震により、死者が多数という記録があります。
さらに、それに続く735年は凶作の年にもなりました。
それが、さらに飢饉を招き、民衆は危機的な状況に追い込まれます。
しかし、そんな状況下で、さらなる被害が追い打ちをかけます。
西暦735年頃から、日本で非常に強い感染力を持った、悪魔の病気【天然痘】が大流行し、
ついに、737年には、日本の首都の平城京にまで、その感染の魔の手が及びます。
734年の地震、735年の凶作に加え、天然痘の大流行が、民衆を悩ませます。
この天然痘は、前身に膿疱を生じ、非常に強い感染力を持ち、
この病気は、時に国や民族が滅ぶ遠因となった事すらある病気です。
それが、日本の首都、平城京を襲った訳です。
ウェイン・ファリアスの研究によれば、
737年の全国平均の死亡率は25%~35%であったと推算されています。
当時の日本の人口は約450万人と推定されていますので、
死亡率から推定すると、100~150万人もの死者が出ていたことになります。
まさに、中世のペスト(黒死病)にも勝るとも劣らない危機的状況だった訳です。
そして、その疫病は、ついには、政治の中枢にいた権力者の命までをも奪う事になります。
天然痘の疫病は、時の権力者であった、藤原氏にも及びます。
その頃は、既に藤原の不比等は亡くなり、藤原四兄弟が、跡を継いでいました。
そして、彼らに、その呪いの魔の手が及ぶのです。。。
Wikipediaには、737年の項目にこう書いています。
737年
- 4月、天然痘で参議藤原房前(57・参議)が死亡する。
- 7月、同じく天然痘で藤原麻呂(43・参議)と藤原武智麻呂(58・右大臣)が死亡する。
- 8月、同じく天然痘で藤原宇合(44・参議)が死亡する(=藤原四兄弟が全て死亡)。
ええ。。。
わずか、4カ月の間に、藤原4兄弟全員が死亡しているのです。
これが、いかに異常な事か分かりますか?
天然痘の被害がいかに凄まじくとも、全国平均で死亡率25~35%の病ですので、
4兄弟を全員が死亡する確率は、単純に0.35^4=1.5%の確率です。
しかも、わずか4カ月間に全員亡くなるなんて、、、明らかにおかしいです。
藤原4兄弟は、よほど運が無かったとしか言いようがありませんし、
もしかすると、その辺に、物部氏による呪い・・・があった可能性も無くは無いのです。
なお、時の為政者であった聖武天皇も、物部氏による呪いが及んでいた可能性があります。
聖武天皇の母は藤原不比等の娘・宮子であり、
聖武天皇の妻は藤原不比等の娘・光明子(光明皇后)です。
藤原家にゆかりの深い天皇だけに、その影響は避けられなかったのかもしれません。
聖武天皇は、728年に最愛の皇太子を亡くしていますし、
729年には、長屋王の変で、弟の長屋王をも亡くしています。
こう考えると、737年の天然痘などの大流行もさることながら、
それ以前からも、物部氏の呪いの影響があったのかもしれません。
皇太子の死と弟の死、さらに、大地震や飢饉が起き、、、
自分を支えていた外戚であった藤原4兄弟まで死亡した。。。
様々な苦難が続く聖武天皇の心境は、いかばかりだったでしょうか。。。
▼聖武天皇(701年~756年6月4日)
歴史の教科書的に言えば、聖武天皇は、その後、この国難から国と民衆を救うために、
"仏教による鎮護国家思想"を全面に押しだしたと書かれています。
鎮護国家とは、仏が、民衆の病気などを救済すると共に、
国家の危機を救い安全を守る・・・という思想のことです。
そのために、建立したと言われているのが、下記の東大寺の巨大な毘盧遮那仏です。
この大仏建立のために、743年に"大仏建立の詔"が出されています。
しかし、ここで、敢えて歴史の定説を覆えす、問題提起をさせて頂きます。
まず、東大寺の大仏は、当時としては、非常に大きい巨大建造物だったはずです。
そして、国家プロジェクト規模の、一大事業だったはずです。
そんな一大事業を、地震や飢饉、疫病などの大災害の後に、膨大な労力をつぎ込んでまで、
建造をするというのは、いささか説得力が不十分であると思えませんか?
何かしら、もっと、大仏を建立する明確な理由があるのではないでしょうか?
実は、あくまで推論ではありますが、、、
東大寺の大仏は、別の違う目的で建立された可能性があります。
その目的とは、、、
ずばり、物部氏によって施された藤原京の巨人像の呪いに対しての【呪い返し】です!
ここで、もう一度、藤原京の巨人像の地図を良く見て見ましょう。
巨人像の剣先は、いったい何処に向いているでしょうか?
・・・実は、その延長線上に、東大寺が立地しているのです。
さらに言うならば、東大寺のさらにその奥の奈良ドリームランドの近辺には、
藤原家(藤原不比等)の霊廟があることも分かっています。
つまり、巨人像の剣の切っ先の延長戦状に、藤原不比等の霊廟があり、
突きつけられた形になっており、その途中の位置付近に、東大寺の仏像がある訳です。
(ついでに言えば、藤原不比等の霊廟のすぐそばに、聖武天皇の霊廟もあります)
※中国では、墳墓(すなわち死者の居住空間)を「陰宅(いんたく)」と呼びますが、
その隠宅に呪いをかけるという、「隠宅攻撃」であった可能性があります。
このようになっているのは、恐らく、
呪術を仕掛ける側と呪術から身を守る側の攻防があったのだと推測されます。
恐らく、経緯としては下記の通りです。
- ①物部氏一族が、藤原氏に対して、藤原京の巨人像を使って呪いをかける。
- ②その結果、藤原4兄弟をはじめ、聖武天皇などの肉親までも、あいついで亡くなる。
- ③呪術に気付いた聖武天皇は、防御機構としてその中間地点の東大寺に大仏を築いた。
こう考えると、実にしっくりきます^^
そして、このような仮説に基づいて考えると、、、
などの疑問も、一挙に解決する訳です。
良く考えて見ると、奈良の大仏は、わざわざ南向きに立てられています。
さらに言えば、右手の掌を前面に出して、何かを受け止める仕草にも見えます。
そう、、、これは、呪いという、"陰の気"を受け止め、
消散させるための仕草のようには見えないではないでしょうか。
つまり、東大寺の大仏とは、物部氏の呪いに対して、呪い返しをするための、
"巨大な人形代(ひとかたしろ)としての呪術人形"だった!と考えられるのです。
下記は、平城京跡から出土された、「人形代(ひとかたしろ)」と呼ばれるものです。
奈良時代の都跡には、こうした人形代(ひとかたしろ)が多数出土されています。
現在では、考えつきませんが、こういうものが、普通に見られるほど、
"呪術"は、人々の生活に密着したものだったのだろうと思われます。
ちなみに、729年の長屋王の変自体が、藤原4兄弟の策謀により、
"聖武天皇の子を呪い殺した"として、長屋王が自害に追い込まれたものでした。
なので、呪いや呪術といったものは、ごく一般的なものだったのです。
こういう呪術(陰陽道)に関する価値観や、当時の思想を知っておくと、
古代奈良時代における政変や大仏建立の意味が、ようやく分かります。
東大寺の仏像は、単なる仏像ではないんです。
聖武天皇も、単なる"鎮護国家思想"が理由で仏像を建立した訳ではないのです。
これで、奈良時代の歴史も、教科書で解説されるものとはまた違った、
別の歴史史観が見えてきたのではないでしょうか^^
真実の歴史を知れば、過去の出来事もより、鮮明に見えてきます。
そして、過去の歴史を見れば、現代に起きていることも分かってきます。
最後に大事なことを言えば、、、
現代においても、そういう陰陽道的な呪いは生き続けています。
ここで解説したのは、巨人像が逆向きに配置された、呪いの呪術ですが、
逆に、呪いではなく祝福を多く受けるのための呪術もあります。
有名な所では、現代都市に施された、風水による四神相応の土地選定などは、
まさに、祝福を受けるための呪術(方位術)、、、と言っても良いでしょう。
江戸城や平安京が、この陰陽道の
四神相応の土地選定を考慮して作られているのは、有名な話です。
陰陽道は、呪いという陰にもなれば、逆に人を助ける陽にもなるものです。
そうした目に見えない力を、どう理解するか?
それが、終末における大事なキーポイントになると管理人は思っています^^
今回は、藤原京について話しましたが、、、
今後、それに関連する話題で、現代にも通じる話をしていきたいと思います。
・・・そういや関東にも、大仏ありましたよね?
牛久大仏っていうんでしたっけ?(謎)
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