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2013年5月27日
先日から、阿波や伊予について色々述べてきましたが、
古代史を考える上で、阿波や伊予の話は、どうしても避けて通る事ができません。
今回は、、、天女の話をします。
最後まで読めば、かなり驚きの日本史を垣間見ることが出来る・・・かも?
先日、「謎多き丹後半島」述べた通り、丹後半島には、天女の伝説が残っています。
丹後の国の風土記の「奈具の社」には、下記のように書いています。
丹後国風土記「奈具の社(やしろ)」
丹後の国の風土記にいう、
――丹後の国丹波の郡、郡役所の西北の隅のかたに比治の里がある。この山の比治山の頂上に井ある。その名を真奈井(まない)というが、
現在ではすっかり沼になっている。▼比沼麻奈為神社 (京都府京丹後市峰山町久次)
この井に天女が八人降って来て、水浴をしていた。
その時、老夫婦がいた。その名を和奈佐老父(わなさおきな)、和奈佐老女(わなさおみな)といったが、
この老人たちは、この井のところに行き、こっそり天女の一人の衣装を取って隠した。やがて衣裳ある天人はみな天に飛び昇ったが、
衣裳のないこの娘だけが一人留まって、身を水に隠し、一人恥ずかしがっていた。
そこで、老夫は天女に言った、
「私には子供がありません。どうか天女の娘よ、あなたは私の子におなりください」と。天女は答えて、
「わたし一人が人間の世界に留まってしまった。
どうしてお言葉に従わずにいられましょうか。だから衣裳を返して下さい」といった。老夫は、「天女の娘よ、どうして人をだます気になるのか」というと、
天女は、「天人の志というものは、信実をもって基本としています。
どうしてこんなにひどく疑って、衣裳を返してくれないのですか」といった。老夫は答えて、
「疑心が多く信実のないのが、この地上の世界では普通のことなのです。
だから、そんな心から、返すまいとしただけです」といった。そして、ついに衣を返して、
そのまま一緒に連れ立って自宅に帰り、一緒に住むこと十余年であった。
ここに、天女は酒を造るのがうまかった。
それを一杯飲むと、見事にどんな病気でも癒えた。
その一杯を手に入れるために、人々は沢山の財貨を車に積んで送るほどであった。▼多久神社(京都府京丹後市峰山町丹波2)(古来、天酒大明神と呼んだ)
そしてこの家は豊かになり、土形(ひじかた)(※田畑のこと)は富んだ。
それゆえに、土形(ひじかた)の里といった。それを大昔を過ぎて、なかばごろから今時に至るまでに、
比治(ひじ)の里というようになった。
その後、老夫婦たちは、天女に、
「お前は私の子ではない。
暫くの間、仮に住んでいただけだ。早く出で行ってしまえ」といった。すると天女は天を仰ぎて慟哭し、地に伏して哀吟し、やがて老夫たちに言った。
「わたしは自分の心から来たく思って来たのではありません。
これはお爺さんらが願ったことなのです。どうして今更憎しみ嫌って、すぐさま出でいけなんて、
そんなむごい事が言えるものでしょうか」といった。
老夫は、ますますいきどおって早く立ち去るように求めた。
天女は涙を流して、やっと門の外に退き、郷人(さとびと)にいった、「私は久しいこと人間世界に落ちぶれていて天に帰ることが出来ません。
また、親しい縁者もなく、住むよしも知りません。
私は一体どうしたら良いのでしょう。」
と言って、涙を拭って吐息をついて、天を仰いで歌った、
天の原 ふりさけ見れば 霞立ち 家路まどひて 行方知らずも
(はるか大空を仰ぐと霞が立って家路がはっきりしないで行くべきすべを知らない)
ついに退き去って荒塩(あらしお)の村に至り、村人達に言った、
「老父老婦たちの心を思えば、私の心は、荒塩(荒潮)となんら異なる所がありません。
(波だち立ち騒いでいます)」と言った。それで比治の里の荒塩の村と言う。また、丹波の里の哭木(なきき)の村に至り、槻の木にもたれて哭いた。
それ故に、哭木(なきき)の村と言う。また、竹野(たかの)の郡(こおり)船木の里の奈具(なぐ)の村に至り、
そして村人達に言った、「ここに来て、私の心はなぐしく(=平和に)なった。」(古語に平善をば奈具志という)
すなわちこの村に留まり住んだ。▼奈具神社(京都府京丹後市弥栄町)
これは、いわゆる竹野(たかの)の郡(こおり)の
奈具の社においでになる豐宇賀能賣命(とようかのめのみこと)なり。
実は、この天女伝説には、多くの謎を解くヒントが詰まっているのです。。。
さて、まずは、最後の文章に着目して下さい。
『これは、いわゆる竹野(たかの)の郡(こおり)の
奈具の社においでになる豐宇賀能賣命(とようかのめのみこと)なり。』
この天女の名前が、豊宇賀能売命(とようかのめのみこと)と呼ばれています。
これは、もしかして、(もしかしなくても)
伊勢神宮の外宮に祀られている、豊受大神ではないでしょうか?
事実、伊勢神宮外宮の社伝(『止由気宮儀式帳』)には、、、
雄略天皇の時代に、天皇の夢枕に天照大神が現れ、
「自分一人では食事が安らかにできないので、
丹波国の比沼真奈井(ひぬまのまない)にいる御饌の神、
等由気大神(とようけのおおかみ)を近くに呼び寄せなさい」と言われたので、丹波国から伊勢国の度会に遷宮させた。
・・・と書かれていますので、
伊勢神宮の豊受大神の正体は天女である!と述べて良いでしょう。
▼天女(下記の銅像は滋賀県余呉湖のもの)
ここまでは、分かりましたでしょうか?
では、この天女は、何処から来たのでしょうか?
一見、これは、良く分からないんですが、ヒントは老夫婦の名前にあります。
実は、老夫婦の名前が、
『和奈佐老父(わなさおきな)、和奈佐老女(わなさおみな)』になっています。
この和奈佐とは、罠作(わなさ)であって、罠作りをする人の意味も含まれてます。
『式社略考』には「和奈はワナであり鳥獣を取ることに長けた人々」と書いてあります。
そして、和奈佐について、もっと調べると、出てくる神社が下記です。
▼和奈佐神社 (島根県松江市宍道町上来待和名佐)
出雲人の語る出雲神話 和奈佐神社の巻
この和奈佐神社は、和奈佐山(出雲国風土記 意宇郡に記載あり)の麓に鎮座しています。
祭神は、「阿波枳閇委奈佐比古命」(あわきへわなさひこのみこと)です。
この付近の地元民は、単に和奈佐彦と呼んでいるようで、
まさに、天女伝説にある老夫婦の「和奈佐翁と和奈佐老女」と同一人物と思われます。
さらに、出雲国の風土記の「船岡山」には、こう書いています。
<出雲国風土記 船岡山>
郡役所の東北一里一百歩にある。
阿波枳閇委奈佐比古命(あわきへわなさひこのみこと)が曳いて来て据えた船が、
すなわちこの山である。だから船岡山という。
この船岡山の山頂には「舩林神社」という神社があります。
<舩林神社のご由緒>
祭神 阿波枳閉委奈佐比古命(あわぎへわなさひこのみこと)
当社は出雲風土記所載の「船林社」にして同風土記によれば
「船岡山」「郡家の東北一十六里阿波枳閉委奈佐比古命の曳き末、
すえませし船化してこの山となる故に船岡と言う」とあり
命は往古この山を中心に粟を主とした農耕の道をお開きになったので
後命の遺徳偲び奉り租神として奉斎した
どうやら、「阿波枳閇委奈佐比古命」(あわきへわなさひこのみこと)は、
船で船林神社あたりに着き、その後、和奈佐神社のある和奈佐山付近に住んだのでしょう。
船でここまで来るくらいですから、、、
どうも、和奈佐彦(和奈佐老父)は、出雲の住民ではなさそうです。
では、いったい、何処から来たのでしょうか???
これを解く鍵は、「播磨国の風土記」の「志深(しじみ)の里」にありました。
<播磨国の風土記 美嚢(みなぎ)の郡 志深(しじみ)の里>
志深(しじみ)と呼ぶわけは、伊射報和気命(履中天皇)が、
この(里の)井で食事をなされた時、信深(しじみ)の貝(蜆貝)が
御飯を入れた筥(はこ)のふちに、ふらふら上がって来た。その時、勅して仰られるには、
「この貝は、阿波の国の和那散(わなさ)に行った時に、私が食べた貝ではないか」
と言った。だから志深の里と呼ぶ。
てっきり和奈佐という名前は、罠作りの意味だと思っていましたが、、、
ここで「和奈佐は、阿波の国の地名だった!」という事がハッキリしました。
そう考えれば、、、
「阿波枳閇委奈佐比古命=阿波国の和奈佐の地から来た男」では無いでしょうか?
前述の通り考えて、阿波(徳島県)の地で、和奈佐を調べると、
下記の和奈佐意富曾神社に行きあたります。
▼和奈佐意富曽神社(徳島県海部郡海陽町大里松原)
和奈佐意富曾神社
和奈佐おうそ、和奈佐おふそ、と言われていますが、正しくは「和奈佐おほそ」みたいです。
(参考サイト 鞆奥と八幡神社の関係について)
和奈佐意富曽神社の祭神に関して諸説あり、、、
『大日本史』には、大麻比古神。
『特撰神名牒』では、大麻神。
『式社略考』では、和奈はワナであり鳥獣を取ることに長けた人々。
『名神序頌』では、日本武尊の子・息長田別命、
あるいは意富曾(オウソ)=オフスノ命=大碓命=日本武尊の兄。
『阿波志』では和奈佐居父祖として日本武尊。
『下灘郷土讀本』では、和奈佐毘古命・和奈佐毘賣命。
『海部郡誌』では、息長足姫命。(和奈佐意富曾神社より引用)
それで、この和奈佐意富曽神社ですが、
「鞆浦大宮に鎮座の社を、慶長9年大里松原に移した」という伝承があり、
元々の神社は、海部川を挟んで反対側の、徳島県海部郡海部町鞆浦にあったようです。
そして、この鞆浦のある海を那佐湾と言いますが、
この那佐湾の海岸一帯の事を、古くは、和奈佐と呼んでいたようです。
また、履中天皇が、
「阿波の国の和那散(わなさ)に行った時に、食べた信深(しじみ)の貝」
の場所は、和奈佐のすぐ隣村にある、海陽町の宍喰および宍喰浦に、比定できます。
※「宍=しし」と読みます。しじみの産地の宍道湖と同じ漢字です
▼徳島県海部郡海陽町宍喰浦宍喰
そう考えると、やはり、和那散(わなさ)=和奈佐も同じ場所を指しているのです。
それで、先ほどから、度々、地名に見かける海部郡・海部川という海部の地名。
そして丹後に残る天女伝説、、、
これは、どう考えても、丹後籠神社の海部氏による伝説であるとしか考えられないのです。
つまり、和奈佐翁(阿波枳閇委奈佐比古命)は、海部氏だった!
・・・と考えるのが、最も妥当な考えだと思います。
また、丹後籠神社の海部氏のルーツは、この阿波の和奈佐の地にある
・・・と言ってもよいと思います。
さて、以上のように、天女を辿ると、阿波の海部氏にまで辿り着く事が出来ました。
しかし、まだまだ、謎は多いです。
まず、「天女のルーツは何か?」という問題がありますし、
さらに、「阿波の海部氏が、丹後まで来た理由は何だったのか?」も疑問です。
難しい問題ですが、、、この辺の謎解きに、次回、チャレンジします。
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