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2013年7月24日
先日以来、七夕と笹との関係について色々調べていますが、
七夕の笹は、仁徳天皇(大鷦鷯命(オオサザキ))や佐々木一族と関わりがあり、
さらに、浦島太郎にも、七夕と深いつながりがある事が分かりました。
また、七夕伝説には、近江の朝妻筑摩や丹後朝妻地区、奈良県御所市朝妻など、
朝妻(朝津間)というキーワードが妙に関わって来ている事も分かりました。
そこで、本日は、朝妻(朝津間)に関わる謎をもう一歩掘り下げてみます^^
以前、「七夕と笹の関係②」でも申し上げたのですが、
仁徳天皇(大鷦鷯命)の第四子の允恭天皇の名前に、朝津間のキーワードがあります。
- 古事記=男浅津間若子宿禰王(をあさつまわくごのすくねのみこと)
- 日本書紀=雄朝津間稚子宿禰尊(おあさづまわくごのすくねのみこと)
今まで述べた通り、七夕の由緒地には、朝妻の地名がみられましたが、
允恭天皇の名前にある朝津間とも、何らかの関係が有ると思われます。
允恭天皇は、系図上では、仁徳天皇の第四子とされます。
しかし、ここで非常に解せない点が出てきます。
允恭天皇の名前の、男浅津間若子宿禰王には、
宿禰という、天皇らしからぬ姓(かばね)が含まれているのです!
野見宿禰や武内宿禰のように、宿禰の姓は、古代では天皇の近侍などに見られます。
その姓が、天皇である人物の名に混じってるのは、どういう事なのでしょうか?
下記は、あくまで、管理人の仮説ではあるのですが、、、
允恭天皇に、宿禰があるのは、本来は、允恭天皇は、天皇ではなく、
大和の地方豪族の王の一人だった事を示している可能性が高いと思われます。
允恭天皇は、仁徳天皇の第四皇子とはされていますが、仁徳天皇の死後、
住吉仲皇子が皇位を奪おうとして謀反を起こした際は、その姿を一切見せていません。
兄の大兄去来穂別尊(のちの履中天皇)や瑞歯別尊(のちの反正天皇)が、
その乱で、大きく取り上げられているのとは、えらい違いです。
こう言う所からも、允恭天皇は、仁徳天皇-履中天皇-反正天皇という河内王朝とは違う、
大和方面の、地方豪族の王ではなかったか?と思うのです。
では、允恭天皇の時代は、誰が本来の天皇だったのか?と言えば、、、
実は、その妻の「忍坂大中姫」だったのではないか?と考えられます。
実は、この説は、下記の書籍の中で、伊藤美奈子氏が唱えている説です。
記紀では、天皇の妃や皇后という記述が見受けられますが、それとは別に、
古事記には「大后」という称号が存在しているのが見受けられます。
※大妃は、オオキサキ・タイコウと呼んだと思われるが、それ自体でオオキミと呼んでいた可能性もある
古事記の神武天皇の段には、こう書いてあります。
<古事記 神武天皇の条より>
故、坐日向時、娶阿多之小椅君妹、名阿比良比賣自阿以下五字以音。
生子、多藝志美美命、次岐須美美命、二柱坐也。
然更求爲大后之美人時、大久米命曰、此間有媛女。
(神武天皇が)日向にいた時、阿多の地の小椅君の妹の阿比良比賣を娶って、
産ませた御子に、多藝志美美命、岐須美美命の二人がいる。しかし、阿比良比賣は妃であって、さらに大后となる美人を探し求めていた時、
大久米命がいわく、ここに姫となる女性がいる・・・
上記に書いてある通り、やはり、妃と大后とは別モノのようです。
また、天皇の母を特に皇太后(こうたいごう)と言いますが、それも大后とは別モノです。
さて、古事記において、この大后が冠された女性は、下記の通り7人居ます。
下記で()内は古事記での名前です
<古事記で大后が冠された女性>
- ①日葉酢媛命(比婆須比売命)
- ②神功皇后=気長足姫尊(息長帯比売命)
- ③磐之媛命(石之日賣命)
- ④忍坂大中姫
- ⑤長田大娘皇女=中帯姫皇女(長田大郎女)
- ⑥草香幡梭姫皇女(若日下部王、又は、波多毘能若郎女)
- ⑦手白香皇女(手白髪郎女)
大后が冠された女性は、合計7人いますが、これらの女性は、
女帝(女性天皇、もしくは、女性の大王 おおきみ)だった可能性があります。
例えば、①日葉酢媛命は、垂仁天皇の大后と記されていますが、
タジマモリの伝説では、持ち帰った不老不死の実ともいわれる、
非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)の半分までを、日葉酢媛命に献上しています。
<古事記 垂仁天皇の条より>
垂仁天皇の命により、非時香菓を求めて常世の国に渡った。
10年かかって非時香菓を日本に持ち帰ってきたが、天皇は既に亡くなっていた。タヂマモリは半分を垂仁天皇の皇后の日葉酢媛命に献上し、
残りを垂仁天皇の御陵に捧げ、悲しみのあまり泣き叫びながら亡くなった。
この扱いの大きさを見れば、日葉酢媛命が、当時では、
天皇と同じくらいの大きな存在だったのが、分かるのではないでしょうか。
恐らく、日葉酢媛命の大后の意味は、丹波国の女王としての位置づけだと思います。
仲哀妃の②神功皇后は、日本史の中で女帝中の女帝なので、いわずもがなです。
③磐之媛命についても、記紀を見れば、嫉妬深い大后として描かれ、
夫の仁徳天皇(大鷦鷯命(オオサザキ))も、かなり大后を尊重しているのが分かります。
実際は、大鷦鷯命が天皇なのではなく、磐之媛命の女帝だったのでしょう。
大鷦鷯命の鷦鷯(セキレイ)には、トツギオシエドリ(嫁教鳥)と言う意味もあり、 大鷦鷯命が婿入りで、嫁いできた事を暗示させる名前になっているように思います。
ここで、大后と呼ばれた女帝の夫側名前も確認してみましょう。
上記に挙げた、夫側の古事記の名前にも注目して見て下さい。
すると、どうでしょうか。
- 1 神武 神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれひこのみこと)
- 2 綏靖 神沼河耳命(かむぬなかわみみのみこと)
- 3 安寧 師木津日子玉手見命(しきつひこたまでみのみこと)
- 4 懿徳 大倭日子スキ友命(おおやまとひこすきとものみこと)
- 5 孝昭 御真津日子訶恵志泥命(みまつひこかえしねのみこと)
- 6 孝安 大倭帯日子国押人命(おほやまとたらしひこくにおしびとのみこと)
- 7 孝霊 大倭根子日子賦斗邇命(おほやまとねこひこふとにのみこと)
- 8 孝元 大倭根子日子国玖琉命(おほやまとねこひこくにくるのみこと)
- 9 開化 若倭根子日子大毘々命(わかやまとねこひこおほびびのみこと)
- 10 崇神 御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)
- 11 垂仁 伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)
- 12 景行 大帯日子淤斯呂和氣天皇(おほたらしひこおしろわけのみこと)
- 13 成務 若帯日子天皇(わかたらしひこのみこと)
- 14 仲哀 帯中日子天皇(たらしなかつひこのみこと)
- 15 応神 品陀和氣命(ほむだわけのみこと)大鞆和気命(おおともわけのみこと)
- 16 仁徳 大雀命(おほさざきのみこと)
- 17 履中 大江之伊邪本和気命(おおえのいざほわけのみこと)
- 18 反正 水歯別命(みずはわけのみこと)
- 19 允恭 男浅津間若子宿禰王(をあさつまわくごのすくねのみこと)
- 20 安康 穴穂命(あなほのみこと)
- 21 雄略 大長谷命(おほはつせのみこと)
- 22 清寧 白髪大倭根子命(しらがのおおやまとねこのみこと)
- 23 顕崇 袁祁王・袁祁之石巣別命(をけのいわすわけのみこと)
- 24 仁賢 意祁命・意富祁王(おおけのみこ)
- 25 武烈 小長谷若雀命(をはつせのわかさざきのみこと)
- 26 継体 袁本杼命(をほどのみこと)
神功皇后の夫の仲哀天皇は、神功皇后に比べて早くに亡くなったので例外ですが、
それ以外の、6人の大后の夫は、全て、天皇らしからぬ名前です。
伊久米伊理毘古伊佐知命・大雀・男浅津間若子宿禰王・穴穂・大長谷・袁本杼
特に顕著なのが、垂仁天皇で、垂仁天皇の前後の時代の天皇は
全て、"日子"が名前にありますが、垂仁天皇だけには、日子がありません。
(※毘古の部分を日子に変えても良さそうに思うのですが、そうはなっていません)
それは何故かと言うと、その垂仁天皇時代は、大后で日葉酢媛命がいたからなのです。
継体天皇の場合は、記紀に記されているように、元々、袁本杼という名の豪族です。
その継体妃の手白香皇女には、しっかり大后として書かれています。
これも、大后という地位が、男性における天皇という地位に匹敵することの現れです。
要するに・・・
大后=女性の天皇(もしくはそれに匹敵する女王)
と考えれば、全て納得できます。
允恭天皇の名前に、宿禰があったのは、彼が天皇ではなかったからなのです。
その妻の忍坂大中姫が大后という地位にあって、
大和の豪族の王に過ぎない男浅津間若子宿禰王は、忍坂大中姫と結婚したからこそ、
後に天皇の扱いとなったのです。
こう考えれば、允恭天皇の名前に宿禰が含まれている理由も納得出来ますよね?
※逆に言えば、忍坂大中姫を素直に女帝と書けない理由も存在しているように思います
記紀編纂者は、大和の天皇家にとは別系統で存在した、女帝の存在を消しているように思います
さぁ、允恭天皇の名前の謎が解けてきたところで、
浅津間の方にも切り込んでいきましょう^^
允恭天皇の名前にあった男浅津間若子宿禰王の浅津間は、
御所市の朝妻を指している可能性が高いと思われます。
それは、允恭天皇の大后 忍坂大中姫の名前や父母の系図を考えるとそうなります。
允恭天皇が婿入りした大后の忍坂大中姫は、、、
父は、稚野毛二派皇子(応神天皇の皇子)
母は、弟日売真若比売命(日本武尊の曾孫)またの名を百師木伊呂弁(ももしきいろべ)
恐らく、忍坂大中姫は、忍坂(奈良県桜井市東部)や
志貴・磯城(大阪府藤井寺市辺り)を拠点とする女帝だったのだろうと思います。
ですので、その女性に嫁いだ允恭天皇も、元々は大和周辺の人物だったと思われます。
と言う事で、允恭天皇の拠点は、御所市の朝妻辺りだった可能性が高いです。
なお、この志貴・磯城(大阪府藤井寺市辺り)辺りに、
天皇に匹敵する勢力があった事は、『古事記』雄略天皇の条の記述でも分かります。
<古事記 雄略天皇の条より>
大后の若日下部王が、まだ河内の日下に居た頃、雄略天皇が大和から日下山を越え、 難波に至る山道を、河内へと出かけたことがあった。
その時、日下山の上に登って、国の内を眺望すると、屋根の上に
堅魚木(かつおぎ)を上げて作った家があった。天皇その家を指さして、「あの堅魚木を上げて屋根を作った家は誰の家か?」
と尋ねたので、側に居た者が答えて、「志幾の大縣主の家です。」と答えた。▼志貴県主神社(大阪府藤井寺市惣社)
すると天皇は荒々しく言い放って、
「あいつめ、自分の家を天皇の御舎(みあらか)に似せて造っておる。」
すぐに人を遣わしてその家を燒かせようとした・・・
堅魚木を屋根に掲げるのは、(民俗学的観点で言えば)酋長の家という意味があるので、
上記エピソードは、天皇家とは別の国の王家、別の天皇家が存在した事を示唆し、
天皇家は決して、一つの系統だけとは限らないと言う事を示しているように思います。
まぁ、雄略天皇はそういう各地の天皇を、
次々と好戦的な態度で、屈服させていった人物であるようですが。
少し、横道にそれましたが、允恭天皇はこのように、御所市朝妻を拠点とすると考えられ、
天皇の称号も名乗っていますが、それは、妻であった、忍坂大中姫の影響が多分にあるようです。
さて、この御所市朝妻なのですが・・・
実は、調べてみると、結構意外な事実が分かってきます。
それは、御所市朝妻の地が、あの秦氏と深く関わっているという事実です。
それは、どういう事なのか?
これについての詳しい事は、また、次回。。。
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