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2014年5月 1日
最近は、『千と千尋の神隠しの謎』について、下記の通り色々考察しています。
それで、次のテーマに進む前に、、、実は、一か所紹介したいスポットがあります。
それが、、、彦根市の山奥、男鬼(おおり)という場所です。
実は、この男鬼(おおり)という場所、知る人ぞ知る秘境です。
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これが、男鬼(おおり)の村。
ご覧のように、人っ子一人見かけることはございません。。。
それもそのはず、この村は廃村なのです。。。
(こちらの曲を聞きながらだと、雰囲気がでる?)
※この集落に来るまでの道は非常に細く、その道の途中には崩落しかけている危険な箇所もあります。ご注意下さい
ここへ来た時は、まぁ、晴れてた日だったので良いんですけど、、、
夜とか天気が悪い日に来ると、恐ろしくなるかもしれません。
家屋は比較的新しいのもありますが、人が住まなければ家屋は急速に脆くなると言います。
この男鬼の村は豪雪地帯でもあるので、もうあと5年もすれば、
家屋も今の原型を留め無くなる家も、ちらほら出てくるかもしれませんね。。。
それで、なんで、わざわざ、こんな彦根の山奥まで来たかと言うと、、、
実は、比婆(ひば)神社というところに、一度、行ってみたかったためです。
滋賀の国道8号線を走った方ならご存知でしょうが、
彦根から米原に向かう途中の鳥居本あたりで、気になる看板が出て来ます。
それが下記。
【画像は「比婆神社」の案内板にひかれてより引用】
国道から8kmも離れた山奥にある神社への案内看板です。。。
「そこまでして、案内する意味は何なの?」と疑問に思わずにはいられません。
この比婆神社、物凄く、山奥にあって、、、
この男鬼(おおり)の村からも、さらに奥の奥にあります。
比婆神社は、山のてっぺんにあるのです。
下記は、男鬼(おおり)の村の麓に在る、比婆神社の鳥居と由緒書きなどです。
比婆神社は、伊邪那美命をご祭神としています。
実は、上記の鳥居は、ほんの入口であって、
比婆神社の本宮は、この鳥居から、さらに車で10分くらい登ったところにあります。
鳥居の間を車で通って、山のてっぺんまでいきます。
しかし、行ったは良いけど、車一台、ギリギリ通れるくらいの山道です。
対向車きたらどうしよう・・・と思いながらのドライブです。
まぁ、幸い、この神社にまで来る物好きは、管理人一人でしたが^^;
で、ようやく頂上に付くわけです。
(頂上だけは、割と広い駐車スペースがあります)
下記が、比婆神社の本宮の鳥居と参道です。
参道をまっすぐ行くと、なんか門があるのが見えます。
門は閉まったままですが、その門の横から通り抜けられます。
その門の横から、入っていくと・・・
ようやく伊邪那美命が鎮座する比婆神社に到着。
神社の社殿の裏が、物凄く大きい磐座になっています。
この周囲の磐座を調べてみると、
(由緒書きにも書いてますが)どうも、岩窟になっているようです。
▼麓にある由緒書き
<比婆神社概要>
鎮座地 彦根市男鬼町字護持ケ谷四九四番地の五
祭神 伊邪那美大神由緒概略
此処を遥かに仰げば森厳極りなき護持ケ谷の聖地なり。
古昔より比婆の山を称し山頂に岩窟あり比婆大神と称へ奉り伊邪那美大神を祀る。
創立年代、これを古書に求めば往昔にあり、御霊厳をあらたかにして
世に「山神さん」とも敬い奉り、近郷は申すも更なり、湖東、湖北、関ヶ原、
さては全国津々浦々より、聖地を開き伝えて参詣する者、
月に日に陸続として踵を接し御神徳に絶大なる信仰を捧げ奉り、
殊に曽ては林元陸軍大将、樋口国大教授、或いは橋本元彦根高商教授等、
数多の知名の人士当社に参拝され、大神の御神徳を仰ぎつつ
崇敬の念を捧げられしを以てするも、如何に尊き古社なるかを知るを得べし。
而して宝暦(1751)以前の建立と伝ふ神殿ありしも腐朽破損せしを以て大正の末期、
崇拝者の寄進により、荘厳なる神明造りの現社殿を再建し奉り以て現今に及ぶ。※上記は一部由緒書きが読み難いため、読み間違っている可能性があります
取りあえず、この比婆神社は創立年代不詳で、祭祀もいつから為されているか不明です。
元々、岩窟があったのところに、社殿が造営されたのではないかと思われます。
その岩窟も、どこまで岩窟が続いているのか不明。。。
相当下まで岩窟がありそうな気もします。
以上が、比婆神社の概要です。
比婆神社を写真の最後は、この神社は前述した通り、山のてっぺんに在りますので、
下記は、ガスってますが、比婆神社からの眺望です。
分かり辛いですが、はるか遠くに琵琶湖が見えます。
ところで、管理人が気になっている事に、、、
(方位磁石が無かったためやや正確ではないかもしれませんが)
この比婆神社は、北向きの社殿になっていると思われます。
普通は神社の社殿は、太陽(朝日)の当たる南向き、もしくは東向きが多いのですが、
この比婆神社は、なぜか他の神社と違い、北向きの社殿になっているのです。
▼太陽光は社殿の裏側から照っているのが分かる
北向きの社殿は、星神(妙見)信仰の場合は、そういう社殿もあるのですが、
祭神が伊邪那美大神ですので、比婆神社は、妙見信仰とは関係ないように思います。
社殿が北向きなのは、元々岩窟があった所に社殿が建てられた為かもしれませんし、
もしくは、伊邪那美大神が黄泉の国に行ったことと関係があるのかもしれません。
ともかく、岩窟の存在や、北向きの社殿、地名が男鬼、廃村などが手伝って、
凄く荘厳ではあるけど、何処か怖い、、、そんな神社でした。
ところで、地名について、、、ちょっとおかしいと思いませんでしたか?
女性神である、伊邪那美大神を祀っている比婆神社があるのに、男鬼です。
ここで、なぜか性別が変わってるんですよね。
まぁ、「そもそも伊邪那美大神と男鬼の知名とは無関係」だと考えれば、
別に男鬼の地名はおかしくは無いんですが、なぜ、こんな名前なのか妙に気になります。
それを調べるには、地名の由来を考えなければいけません。
果たして、男鬼って地名は一体、何処から来ているのでしょうか?
実は、男鬼の地名の由来を調べると・・・こういう記述があります。
<男鬼より引用>
和銅5年(712年)に建立された霊仙山7ヶ寺の中に男鬼寺(だんきじ)の名がある。
(ただし、それが現在の『男鬼』と場所を同じくするかどうかは定かではない)ちなみにこの7ヶ寺の中には『仏生寺』や『荘厳寺』といった
『男鬼』近辺の集落の名も見られるが、どちらも寺は現存せず地名が残るのみ。また天正15年(1588年)に中納言秀次(豊臣秀次)が近江一円氏に命じ作らせた
絵地図には武奈、男鬼の村名が見られるという。
上記の記述が真実ならば、この男鬼地区の歴史は大変古いです。
で、ちょっと注目なのは、男鬼寺(だんきじ)の建立年代ですね。
和銅5年(712年)に『古事記』完成
養老4年(720年)に『日本書紀』完成
和銅5年(712年)男鬼寺建立
ですから、、、
普通に考えると、記紀が完成する時代か、それ以前から、
この地の地名が『男鬼』である可能性があります。
<特記事項>
ただし、(男鬼寺の名前の記載を含む)霊仙山7ヶ寺の記載は、
『興福寺官務牒疏(こうふくじかんむちょうそ)』に書かれてます。『興福寺官務牒疏』は、椿井文書として偽書の疑いもあります。
したがって、和銅5年(712年)の(男鬼寺含む)霊仙山7ヶ寺の建立の記述を信じて良いか?という問題もあります。
しかし、霊仙山7ヶ寺(観音寺、安養寺、大杉寺、仏生寺、荘厳寺、男鬼寺、松尾寺)のうち、 松尾寺は現存するとともに、霊仙三蔵(天武朝で真人の姓を受けた息長氏丹生真人族の長子)の記録から、 少なくとも765年以前には、既に松尾寺があった事が確認されています。
霊仙山7ヶ寺のうち、現在確認できるのは、松尾寺のみですが、
松尾寺があると言う事は、男鬼寺もあったのではないか?と管理人は考えます。※松尾寺は、その名前から、秦氏が関与している可能性が高そうです
男鬼(おおり)の地名は、残念ながら、現時点ではこれ以上詳しく調べることが出来ません。
ただ、京の都から見て、北東の鬼門となる丑寅の方向にある『男鬼』だけに、、、
そして、黄泉の国に行った伊邪那美大神が祭神として、
北向きの社殿で比婆神社に祀られているだけに、、、
この男鬼(おおり)の地名は、何か大きな意味を持っているような気がしてなりません。
最後に、一つだけ触れておくと、、、
『男鬼』の比婆神社に岩窟があったように、この地域は非常に岩窟が多い地域です。
この地域には、国内第4位の奥行きを誇る、河内の風穴という、自然の鍾乳洞もあります。
これは現在分かっているだけで、奥行き7000mという巨大鍾乳洞です。
(※今もなお調査中で、最奥部はまだどれだけ広がっているか分からない)
▼河内の風穴入口
▼内部(中央の赤いジャケットを着た人で洞窟のサイズが分かる)
古代にはこの岩窟は、越前に繋がっているとも言われ、
中世においては、この岩窟に入った犬が遠く三重県で見つかったとも言われてます。
人類が未だ知らない地下世界。。。
どこか黄泉の国に繋がるイメージが、この地域には漂っているような気がします。
最後に、少し、ショッキングな画像を。
下記は、岐阜県郡上の念興寺にある鬼の頭蓋骨の写真です。
【郡上市史より】
・・・もしかすると、鬼は、案外伝説上のものではなく、本当に居たかもしれませんね。。。
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